どうすればよいのでしょうかという種 待降節第3主日(ルカ3・10〜18)

私たちは、人生の中で【師】という人に出会うことがあるのではないでしょうか。例えば両親であったり、学校の先生や習い事の先生であったりと、人との出会いの中で人生を大きく左右し、影響を与えてくれた人がいるのではないでしょうか。私は、自分の召命のきっかけとなった神父様がいました。まだ、小学生3年生の頃その神父様と出会い「僕は、このような神父様になりたい」と思ったのです。

きょうのみことばの1節前に「斧はすでに木の根元に置かれている。だから、善い実を結ばない木はみな倒され、火に投げ入れられる。」と洗礼者ヨハネは、自分のところに洗礼を受けに来た人々に言っています。きょうのみことばは、その洗礼者ヨハネの言葉を聞いた群衆が、「では、どうすればよいのでしょうか」と尋ねるところから始まっています。一部の律法学者やファリサイ派のような宗教者や裕福な人たちが力を持っていて、貧しい人は、彼らから搾取されるような混沌とした時代に人々は、救いを求めヨハネの所に集まってきました。

彼らは、洗礼者ヨハネの「斧はすでに木の根元に置かれている。だから、善い実を結ばない木はみな倒され、火に投げ入れられる。」という声を聞いて不安を覚え「どうすれば、火に投げ入れられないようになるのですか。神殿で犠牲(いけにえ)を捧げるのですか。たくさんの献金を捧げるのですか。断食をするのですか。」とみことばには書かれてありませんが、尋ねたのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネは、彼らに「下着を2枚持っている者は、持っていない者に分け与えなさい。食べ物を持っている者もまた、同じようにしなさい」と答えます。この答えを聞いて彼らは、どのように思ったのでしょう。きっと「えっ。それだけ。それならば何とかできるかもしれない。でもそれだけでいいの。」と思ったのではないでしょうか。同じように、徴税人たちが来て「先生、ではわたしたちはどうすればよいのでしょうか」と尋ねます。洗礼者ヨハネは、彼らの質問に「規定以上に取り立ててはならない」と答えます。次に兵士たちも来て「わたしたちも、どうすればよいのでしょう」と尋ねます。洗礼者ヨハネは「誰からも脅し取ったり、ゆすったりしてはならない。自分の給与で満足しなさい」と答えます。洗礼者ヨハネの答えは、難しいものではありませんでした。

徴税人や兵士たちは、人々から軽蔑されていました。そんな彼らは、「自分たちの生活が少しでも豊かになるために取り立てを多くしたり、暴力や武器を使って人々からお金を奪ったりしているのだから、自分たちは救われないだろう。」と思っていたのでしょう。そんな彼らに対しても洗礼者ヨハネの答えは、厳しい犠牲や要求ではなく日常の中でできる【当たり前】の答えだったのです。きっと、彼らは「それなら、何とかできる。それだけで救われるのならやってみよう。」と思って安心して帰って行ったことでしょう。

みことばの中では、イエス様の宣教はまだ始まっていませんが、洗礼者ヨハネの教えは、まさにイエス様の宣教のスタイルと全く同じでした。もしかしたら、おん父が荒れ野で洗礼者ヨハネを召された時にイエス様の「思いや行い」を彼に託したのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、おん父のみ旨を忠実に守り、人々に伝えたのでしょう。

人々は、洗礼者ヨハネの教えを聞き、彼こそが「メシア」ではないだろうかと思います。しかし、洗礼者ヨハネは、「わたしは水であなた方に洗礼を授けるが、わたしよりも力のある方が来られる。……その方は聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる。」と言われます。洗礼者ヨハネは、自分がおん父から召された使命を忠実に果たします。彼は謙遜な心で、忠実に伝えなければならないことは人々に伝え、自分を過大評価することなくありのままの自分を受け入れ、人々にもそのようにするように勧めたことでしょう。自分が授ける洗礼とイエス様が授ける洗礼の違いを伝えることで、「メシア」は自分ではなく、これから来られる「イエス様」こそ「メシア」であるということを伝えたのです。

きょうの典礼は、「喜びの日曜日」と言われています。イエス様のご誕生が間近になり、私たちの心も何となく「ワクワク」してきます。パウロは「いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。……かつ、願い、あなた方が望んでいることを神に向かって打ち明けなさい。そうすれば、人間の理解を遥かに超える神の平和が、キリスト・イエスに結ばれているあなた方の心と思いを守ってくださいます」(フィリピ4・4〜7)と言っています。罪びとと言われ蔑まれていた徴税人や兵士たちは、自分たちの「救われたい」という思いを洗礼者ヨハネに伝え安心して喜んで帰ります。彼らはもう「その時」から生活が変えられていったことでしょう。救われないと思い込んでいた彼らは【希望】という【宝】を得ることができました。

主のご降誕を前にして今一度「わたしはどうすればよいのでしょうか」とおん父に尋ねることができたらいいですね。

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