「王」とは? 王であるキリスト(ヨハネ18・33b~37)

旧約聖書の中で、サウルやダビデなどが油を注がれ、聖別された者として王の職務を果たしていきます。こうして神は王を自分の養子、権能の保管者、地上のすべての王の頭としていきます。神から託された支配的な王のイメージを想像することができるでしょう。

こうしたイメージが影響したためでしょうか、多くの人々は、救い主として政治的な色彩を帯びた王をイメージしていきます。実際、イエスのエルサレム入城において、「ろばに乗り」(ゼカ9・9)、イスラエルの王として歓呼されていきます。ただ「馬」ではなく、「ろば」であるのが、興味深い点です。すなわち「馬」は戦いのイメージ、「ろば」は平和のイメージ。そこにちょっとした違いがあります。

またピラトはイエスに対して「お前はユダヤ人の王なのか」(ヨハ18・33)と尋ねます。イエスはそれを肯定しながらも、「わたしの国は、この世に属していない」(ヨハ18・36)とはっきり答えます。こうしてローマ皇帝と自分が争うような立場の者ではないことを明言します。一方、ユダヤの指導者階級は、イエスが王であることを拒否するために、ローマ皇帝を自分たちの唯一の王と認めるようになります。こうして、イエスが王であることは、軽蔑の対象になっていきました。

事実、総督の兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」(マタ27・29)と言ってイエスをなぶりものにします。王冠ではなく、茨の冠をイエスの頭に載せる行為は、典型的な姿勢でしょう。また十字架上の捨て札には、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(ヨハ19・19)とさえ記されます。こうして多くの人々がイエスに対して軽蔑していきました。このような軽蔑的な態度が数多く見えていく中で、犯罪人の一人は「イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)と語ります。とても素晴らしい信仰告白でした。

栄光に輝く十字架上のイエスに、「王であるキリスト」の姿を考えてみたいものです。

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