53. 教区法による修道会へ発展 ――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

アルベリオーネ神父の創立した「印刷学校」は、人数と活動が多くなったから自然に聖パウロ修道会になったわけではない。学校にしても会社にして一個の法人として法的にも認められるためには法的な手続きが必要であるのと同様に、教会内のグループも修道会として認められるには、会員たちの並々ならぬ努力と教会法に定められた複雑な手続きが必要なのである。

さてアルベリオーネ神父は、聖パウロ修道会を創立するに当たって、長年にわたり、どれほど苦労のいる法的手続きをとったか、次にその経過を述べみたい。

先にも述べたように「印刷学校」を創立する前にはアルバの教区長のレ司教に相談し、その許可をえた。しかしそれだけでは印刷学校は教区内に一つの信心会やサークルのようなもので法的には何の価値もない。アルベリオーネ神父は、これを一つの修道会としてせめて教区内だけでも法人レベルに引き上げてもらいたい、とレ司教にお願いした。

それでレ司教は印刷学校創立以来七年目の一九二一年(大正一○年)十二月三十一日に、聖パウロ会を初めて聖座へ正式に紹介した。その内容は、要約して次のようなものであった。「印刷学校には司祭や修道士がおり、志願者も多数おり、印刷設備もととのい、良書出版をしている。アルベリオーネ神父は、私に聖パウロ会を教区法による修道会(Cogregatio Religiosa Iuris Diocesani)にしてくださいと正式に頼んでいる。私はアルバ市の聖職者たちに意見を聞いて次の考えに達した。

(1)、無宗教の出版物が出まわっている時であるだけにこの会の狙う目的は大変よろしい。(2)、この会の会員たちを振るい立たせている精神は、良い修道者づくりにびったりしている。(3)、この会は会員の数からして経済的でも、教会への奉仕という面からみても着々と充実してきているので、近いうちに、教区法による修道会に昇格させたいと思っている」と。

同じ年の十一月二十三日にアルベリオーネ神父の書いた報告書もレ司教は聖座に提出していた。その主な天は会員が清貧、従順、貞潔の誓願のほかに教皇への忠誠の誓願を宣立し、最も迅速な、最も豊かな手段を使って、中でも今日、良書出版の手段を使ってイエス・キリストの王国を広めている、ということであった。

教会法第四九二条によれば、「司教は(教区法による)修道会を設立できるが、聖座にはからないでそれを設立し、もしくは、その設立されるのを放任してはならない」とある。

レ司教は、以上のことを考慮したのち、先の日付の紹介状の結びに、次のことを検討していただきたいと修道者聖省長官にお願いしている。今のところ会員に一年毎の私的誓願を立てさせ、アルベリオーネ神父が報告書の中で草案した通りの修道生活を続けさせてよいかどうか。提出された会憲のメモは、聖座としては教会法で求められた許可を与えるために足りるかどうか。まだ修道会としての条件が十分そろわなければ、不足を補ったあと、いずれ近いうちにこの会を「教区法による修道会」に昇格させるという希望をアルベリオーネ神父に与えてもよいかどうか。このレ司教の紹介状の返事として修道者聖省の長官ヴァフレ枢機卿は、一九二二年(大正一一年)二月二十四日にレ司教にこう書いている。

「すべてを熟慮してみて、私は新しい修道会を設立する必要はないと思う。この会の目的は、たしかに非常に崇高なものであるが、教会の信心会や在俗会でも容易に達せられるものである。……教区長の親身な導きと配慮によって、現代にかなったこの事業を組織し、引き続きその特色を発揮してもらいたい……」と。

それでもアルベリオーネ神父は、あきらめないで、会員をふやし、会憲を修正し、会員や志願者の霊性を高め、事業を拡大充実し、司教や主任司祭たちの信用をえたのち、この会をせめて教区法による修道会に昇格していただきたい。できればパウロ会の女子部(のちの聖パウロ女子修道会)もピエ・ディセポレ(のちの師イエズス修道女会)も大いにパウロ会の力と助けになっているから、この二つをも修道会にしていただきたい、とレ司教に何回もお願いした。レ司教はその熱意に答えて修道者聖省の新しい長官に相談してみた。

このようにしてアルベリオーネ神父がレ司教に修道会設立許可を願い出てから五年間、パウロ会員、事業、霊性ともに、いよいよ充実した。新修道会の設立には形式的な書類植えの手続きも大切だが、アルベリオーネ神父は、それよりも教会と社会への奉仕の実績を世に問うことに力を尽くしたのであった。

この努力の積み重ねを経て一九二六年(大正一五年)六月十三日、ラウレンティ・カミロ枢機卿は教皇ピオ十一世にパウロ会の内情をくわしく報告したあと、こうたずねた。「教皇さま、パウロ会は公式誓願を立てる修道会として認可しなければなりませんか?」すると教皇は、はっきりと答えた。「はい、私たちは良書の出版修道会を望んでいます。」それでラウレンティ枢機卿は同年六月三十日、アルバのレ司教あてに、教皇はパウロ会を教区法による修道会にすることに同意したと手紙で知らせた。

そして一九二七年(昭和二年)三月十二日、アルバ教区のレ司教は教区法による聖パウロ修道会設立許可状に署名した。その翌日、アルベリオーネ神父は教区の当局者たちや会員たちや志願者たちの見守る中で、レ司教の前で公式終生誓願を宣立した。レ司教は先の設立許可状にそえて、アルベリオーネ神父を聖パウロ修道会の会長に任命し、プリモ・マエストロと呼ぶことにした。

同年三月に、アルベリオーネ神父は修道院にいた一五名の司祭の終生誓願を受け、四月四日には二四名の神学生の有期誓願宣立を受けた。そして終生誓願を宣立した司祭のうちから、五名の評議員が選出された。思えば手続きを始めてから苦しい七年間であったが、聖パウロ会は少なくともアルバ教区内では、教区法の承認を受け、れっきとした修道会の姿を整え、ここに全世界へ向かって、羽ばたくための段階を一歩登ったのである。

もちろん、アルベリオーネ神父は、次はパウロ会を聖座法の修道会に昇格させ、世界的な規模の修道会にさせたい夢をいだいていた。それでまず非の打ちどころのない堂々たる修道会に仕上げ、教会と社会に大いに貢献しているという実績を積み上げることに全力をあげた。それだけに初期の会員たちには厳しい修道生活、犠牲の多い使徒職、忙しい中での猛烈な勉強、厳しい清貧の生活が、たえまなく要求された。すなわち聖パウロ会の発展の歴史は、一方では聖座法による修道会設立許可をいただくための手続きをしながら、他方ではパウロ会の実績を聖座と各教会に見せるという努力を軸としていると言えよう。

パウロ会が教区法による修道会として認められたことは、アルベリオーネ神父にとっては、パウロ家の発展の一段階にすぎなかった。その神父の宣教の目は、イタリア教区内たけでなく、広く遠く世界のすみずみまで向けられていたのである。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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