一切を捨てるという種 年間第28主日(マルコ10・17〜30)

私たちの普段の生活は、朝起きて食事をして学校や職場に向かう人、または、送り出して家事を行う人もいるでしょう。ほとんど普段と変わらない日々を過ごす毎日だと思います。そんな中、より精神的なまたは霊的な飢えから、黙想会や巡礼に参加したり、座禅や瞑想やヨガなどを行ったりする人もいることと思います。今よりも何か違う“私”を求めようとする欲求は、人それぞれ違うかもしれませんが持っているのではないでしょうか。

きょうのみことばのテーマは、「イエス様に従う」こと言ってもいでしょう。イエス様が旅に出ようとしているところにある青年が走り寄って来て「善い先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか」と尋ねます。それは、イエス様が「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10・16)と言われた後でした。この青年は、今のままの生活では、「神の国に入ることができない」と思って、何か特別な【何か】を求めようとしていたのではないでしょうか。

イエス様は、今、エルサレムに向かい【十字架への旅】に出発しようとしている時でした。そこへ、この青年が走り寄り質問したのです。イエス様は、彼が「よい先生」と言った言葉に「なぜ、わたしを『善い』というのか。神お一人のほかに、善い者はいない。」と言われます。イエス様は、この青年がなぜ自分の所に来たのかということが分かったのではないでしょうか。それで「わたしのほかに何ものをも神としてはならない」(出エジプト20・3、申命記5・7)を意識させるために「神お一人のほかに、善い者はいない。」と言われ、『十戒』を想起させ他のでしょう。それからイエス様は十戒の中でも「人に対する罪」である「殺すな。姦通するな。盗むな。偽証するな。欺くな。父母を敬え」という人として当たり前の教えを青年に伝えます。

青年は、「先生、これらのことはすべて、小さい時から守っています」と答えます。言い換えると彼は「律法を守ることができる環境にいた」ということでした。当時の貧しい人の中には、飢えをしのぐためにお金や食物を盗む人もいたかもしれません。また、生活のために仕方なく人を欺いたり、偽証したりした人もいたかもしれません。悪い事だと分かってはいても貧しさから、十戒を守ることができない人もいたのではないでしょうか。

イエス様は、彼の答えを聞いてから「あなたに欠けていることが一つある。行って、持っているものをことごとく売り、貧しい人々に施しなさい。」と言われます。イエス様のこの言葉は、十戒に出て来ません。彼は、十戒を守っているだけでは「神の国に入ることができない」と気づき、さらに「何か特別のもの」を望んでいました。イエス様は、「彼を見つめ」「愛情を込めて」彼に対して言われています。イエス様は、決して彼を攻めているのではありません。むしろ、彼が「神の国に入ろうと望んでいる」とことを喜ばれているのです。それからイエス様は、「わたしに従いなさい」と言われます。この言葉は、「イエス様と共について行く(十字架を担う)」という意味もありますが、「イエス様が教えたことを実行しなさい」という意味も含まれているのではないでしょうか。

残念ながらこの青年は、イエス様の言葉を聞いて、悲しみ、沈んだ顔つきで去って行きます。彼は多くの財産を持っていたのです。もしかしたら、彼は「自分の平安、安泰さ」を保ちながらさらに「神の国に入ること」を望んでいたのでしょう。ある意味では、十戒を守ることが出来ている自分は、他の教えもできるという慢心な心が彼の中にあったのかもしれません。イエス様の答えを聞いた彼は、自己への【執着】ということに気付かされたのではないでしょうか。

イエス様は、「財産を持つ者が神の国に入るのは、何と難しいことであろう」と言われます。イエス様は、財産を持っていることへの危険として【執着すること】を教えられます。私たちの財産は、お金だけでなく、知恵や体力なども入っているのではないでしょか。私たちは、おん父から創られたのですから「私に与えられた財産」は全て「私のものではなくおん父のもの」と言えます。その【財産】を自分のために使うか人のために使うかということが問われているのではないでしょうか。なかなか私たちは、自分の中にある【執着】を捨てることはできません。イエス様は、「神にはおできにならないことはないからである」と言われます。私たちは、この言葉に信頼し、祈ることができたらいいですね。

ペトロは、イエス様に「わたしたちはこの通り一切を捨てて、あなたに従いました」と答えます。イエス様は、この答えを聞かれてきっと嬉しかったことでしょう。しかし、それはただ捨てることではなく「わたしのため、福音のために」捨てると伝えられます。このことは、「私たちの全てを『福音のため』に使いなさい」と言っているような気がします。私たちがイエス様に従う時、これは手放せないという条件付きの福音宣教ではなく、また、何かに縛られることなく心からイエス様に従って行くことができたらいいですね。

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