主に従う 年間第24主日(マルコ8・27~35)

弟子たちはイエスをどのようにイメージしていたのでしょうか。弟子たちの回答がそれを物語っています。「洗礼者ヨハネ」「エリア」「預言者の一人」など。旧約聖書のイメージやもっとも身近な「洗礼者ヨハネ」などを取り上げていきます。さらにイエスそのものについて尋ねられ、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えていきます。それはとても的確な答えでした。

ところが、イエスが苦しみを受け、排斥され、三日の後に復活することを語ると、ペトロはイエスを「いさめ始め」ます。「いさめる」にはギリシア語の「エピティマオ」が使われ、それは「たしなめる」「命じる」「叱る」などを意味します。単純にこの意味から考えると、イエスはペトロから「たしなめられ」「叱られた」ことになります。これと似たような表現は、イエスが汚れた霊を退けるために叱ったり(マルコ1・25参照)、ガリラヤの湖で弟子たちが突風に襲われたとき、風を叱る(マルコ4・39参照)表現と同様です。イエスにとっても、何故自分がペトロに怒られなければと思ったことでしょう。

それに対してイエスは、「ペトロを叱って言われます」(8・33参照)。「叱る」は「エピティマオ」。ペトロがイエスを叱ったように、イエスもまたペトロを叱っていきます。さらに「サタン、引き下がれ」と厳しいことばが、弟子たちを前にして響き渡ります。

イエスのことばが印象的です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8・34)と。また「福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8・35)と、「福音のために」を付加しています。自分の利益のためではなく、イエスのため、福音のために自分の十字架を背負うことが求められます。こうしてペトロはイエスから直接に語りかけられますが、イエスが十字架につけられる前にはやはり、ペトロは自分を捨てず、イエスを否認します(マルコ14・30~31)。またイエスの十字架を背負うのも、弟子たちではなく、キレネのシモン(マルコ15・21)でした。

紆余曲折しながら、ペトロや弟子たちがイエスに従っていく足跡がよく見えてきます。

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