耳の聞こえない人 年間第23主日(マルコ7・31~37)

年齢とともに、耳が聞こえなくなったりします。補聴器をつけても、違和感があって、まだまだ開発が必要なのでしょうか。こうした耳の悪い人は、声が大きくなり、ちょっとしたことでも、びっくりするような声になったりします。

私の義理の叔父は、小学生の時から耳が悪く、会話する時にはとても不便でした。それで指で文字を書き、会話をします。例えば、「教会」という時には、「き・ょ・う・か・い」と一文字ずつ指で書くと、叔父が「きょうかい」かと声を出して聞いてきます。叔父は器用なことに、文字を書いている指先を見るとともに、相手の口元もよく見ています。両方で会話の内容を確認しているのでしょう。

耳が悪いといろいろと不便ですが、同時に他の機能がよりいっそうそれを越えているのでしょう。教会でゆるしの秘跡を受ける時も、とても大きな声を出して告白するので、近くに座っている人には声が聞こえるくらいです。でもとても根が正直で素直なので、周囲の人も少し声が大きくてもそれは受け入れてくれています。このように耳が不自由というのは、日常生活でずいぶん不便だなあと感じます。

イエスは口のきけない人、耳の聞こえない人を癒します。その方法も、両耳に自分の指を入れ、ご自分のつばをつけてその舌に触れてから「エッファタ」と言います。何となくおまじないのように感じますが、それによって舌のもつれを解け、耳を開き、口がきけて耳が聞こえるようになります。

イエスはこのことについて、誰にも言わないように命じますが、戒めれば戒めるほど癒された人は多くの人々に話していきます。それだけ、回復したことの喜びを多くの人に分かち合いたかったのでしょう。

病は私たちにとっての十字架ですが、それを癒してくださるイエスの恵みを、今日の箇所から深く味わいたいものです。

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