人間を縛る戒めではなく 年間第22主日(マルコ7・1~8、14~15、21~23)

小学校の時、昼食の前には手を洗うようにと先生から何度となく忠告されたことがあり、食事の前に手を洗う習慣は今でも続いています。小さい頃に言われたことはけっこう耳に残るものです。

食事の前に手を洗うことは、私たちにはごく普通の習慣としてとらえているかもしれませんが、水が少ない地域ではそれなりの工夫がなされていることでしょう。また今日のみことばにあるような「汚れた手」とは、律法の規定するものというよりも、世俗的な物事のために使った手のことをさすようです。

そうしたこともあり、手を洗うことはとても重要なことでした。それが乗じて、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言い伝えを固く守り、念入りに手を洗わずには食事をせず、また市場から持ち帰った物は、まず水で清めてからでなければ、それを食べることはなかった」(マルコ7・3~4)と言います。

それだけ清めることには徹底していたのではないでしょうか。食前に手を洗うことがいかに重大な義務とされていたかは、獄舎で渇死しようとしていた有名なラビ・アキバが、与えられた少量の水を飲まずに、それで手を洗って食事をとったことからも理解できます(フランシスコ会分冊の注1参照)。

手を洗うことは大事ですが、それに縛られてしまって、本来の行為から逸脱することはいただけないことです。弟子たちはけっこう大雑把だったのかもしれません。

そんな弟子たちをイエスはかばうかのように、イザヤの言葉を用いながら、「この民は口先でわたしを敬うが、そこ心はわたしから遠く離れている。彼らはわたしを拝むが、むなしいことである。彼らの教える教えは人間の造った戒めであるから」(マルコ7・7)と答えていきます。

人間がこまごましたことを作ってしまって、人間を縛るようになっていないかを問いかけてくれます。

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