イエス様を信じ、知るという種 年間第21主日(ヨハネ6・60〜69)

私たちの心は弱く変わりやすいものです。始めは、気に入っていても時間が経つにつれて「飽き」がくることもあります。新しいカバンを購入しても、また、別のカバンを欲しくなったり、何か趣味の道具なども少しずつ新しいものが欲しくなったりしてしまいます。では、人間関係はどうでしょうか。始めから気が合って長く付き合う人もいますが、ちょっとした誤解や性格が合わなくなって付き合いが途切れてしまうということもあるでしょう。

きょうのみことばは、イエス様の弟子になるための信仰告白ということを私たちに教えている箇所ではないでしょうか。ヨハネ福音書の6章は、イエス様が「5つのパンと2匹の魚」を群衆に食べさせるという徴(奇跡)から始まっています。群衆は、イエス様の徴を体験してイエス様について行きます。この6章の中のユダヤ人たちの言葉の移り変わりを見るとちょっと面白いかもしれません。彼らは、イエス様がなさった徴の直後は「まさにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言っています(6・15)。次に、いなくなったイエス様を捜し出し「ラビ、いつこちらにおいでになったのですか」と言います(6・25)。イエス様が「命のパン」について話された時は、「神の業を行うためには、何をすればいいのですか」と尋ねて(6・28)、「……あなたを信じるために、あなたはどんな徴を行ってくれますか」(6・30)と言い、さらに「主よ、そのパンをいつもわたしたちにお与えください」(6・34)と言います。

このユダヤ人たちの願いを聞かれた、イエス様は「わたしが命のパンである」と言われ一番大切なことを彼らに説明されます。しかし彼らは、「これはヨセフの息子イエスではないか。……『わたしは天から降ってきた』などというのか」と言い(6・42)、イエス様が「このパンを食べる人は永遠に生きる。しかも、私が与えるパンは、この世に命を与えるためのわたしの肉である」(6・51)と言われると。彼らは、「この人は、どうして自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」と互いに激しく議論をし (6・52)、「これはとんでもない話だ。誰が、こんな話を聞いていられよう」(6・60)と言います。

イエス様は、彼らの言葉を聞かれ、「わたしの話があなた方をつまずかせるのか。それでは、人の子が元いた所に上って行くのを見るなら……。」と言われます。イエス様は、ユダヤ人たちが「主よ、そのパンをいつもわたしたちにお与えください」という願いに応えるために、「わたしが命のパンである」という大切なことを教えられました。しかしユダヤ人たちには、イエス様が話されたことが理解することができませんでした。

それなら、ご自分が復活しておん父の元に戻られるのを上って行くのを見ても信じることができない、と嘆かれます。イエス様は、ユダヤ人たちに対して丁寧に、愛を込めてお話になれました。この6章は、イエス様が【命のパン】である【聖体】の大切さをわかってもらうための私たちへのメッセージ出ないでしょうか。イエス様は、聖体として私たちと共にいつまでも留まってくださり、昇天によってもっと広く私たちをご覧になられることを伝えられているようです。

イエス様は、「命を与えるのは霊である。肉は何も役に立たない。わたしがあなた方に話した言葉は、霊であり、命である。」と言われます。人間的な思い、理論的な考え、自我などは、何の役にも立たないと言われているのではないでしょうか。イエス様は、その人間的なものに【み言葉】【霊】【命】を与えてより素晴らしいものに変えてくださるお方といってもいいでしょう。

ユダヤ人たちは、イエス様の話を聞いた後、イエス様に背を向けて去って行きます。このユダヤ人たちの気持ちの変化を見てみると、『種まきのたとえ』を思い出されます。最初は、イエス様の話や徴に触れてイエス様について行きますが、彼らの信仰の弱さから、しっかりと根を伸ばすことができなかったり、誘惑や自我によってうまく成長することができなかったりしてしまいます。

イエス様は、12人の弟子たちに対して「まさか、あなた方まで離れて行くつもりであるまい」と言われます。そこで、ペトロは「主よ、わたしたちは誰のもとに行きましょう。……あなたが神の聖なる方であることを信じ、また知っています」と答えます。去って行ったユダヤ人たちは、イエス様を頭で理解しようとしていました。ですから、理解できなくなるとイエス様から去って行きます。しかし、残った12人の弟子たちは、召された時からイエス様と生活し、イエス様に触れ、理屈抜きにイエス様を愛し、信じ、誰がなんと言おうとイエス様が聖なる方であることを知っていたのです。

私たちが洗礼の恵みを頂いたのも同じではないでしょうか。たとえ、聖書を研究し、要理を学び、イエス様のことを理解したとしても洗礼の恵みまで行かない人はいます。私たちの信仰は、イエス様そのものに触れることによって豊かになるのではないでしょうか。私たちは、今頂いている【この恵み】を感謝する、イエス様のところに留まり続けることができたらいいですね。

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