おん父から養われるという種 年間第19主日(ヨハネ6・41〜51)

私たちはどのような時に【不平】を言うのでしょうか。「不平」は、心が「平和」「平安」ではない時に起こります。例えば、自分の意見や考えた通りに物事が運ばれなかったときではないでしょうか。一生懸命考えた自分の企画が思い通りにいかなかった、せっかく作った夕飯を断られた、良かれと思って言ったことが逆の結果になった時などに程度の差はありますが【不平】が起ってきます。もしそのような時に、自分の考えを横において、相手に対して心を開き、受け入れようと思った時、その【不平】というストレスは、和らぐのではないでしょうか。

きょうのみことばは、イエス様が「わたしが天から降ってきたパンである」と言われたことにユダヤ人たちが【不平】をいうことから始まっています。ユダヤ人たちは、イエス様がどのような家族構成で、どのように育って行ったかをよく知っていました。そんなイエス様がパンを増やしたり、色々な徴(奇跡)や教えを伝えたりしている様子を見たユダヤ人たちは、イエス様に対して疑問を抱いて行きます。そして、イエス様に対して【不平】を言い合います。彼らの論点は、イエス様が言われた中の「わたしは天から降ってきた」ということで、「どこからきたのか」ということでした。イエス様は、ご自分が「わたしが天から降ってきた【パンである】」と言われたかったのにもかかわらず、彼らは、大事なところを抜きにして【不平】を言い合っていたのでした。

イエス様は、そのような彼らに「不平を言い合うのはやめなさい」と言われます。彼らの「不平」は、全く意味がなく、イエス様が彼らに示した教えからますます離れて行っていました。イエス様は、そのような無駄な話をするよりもっと大切なことを伝えますよ、と言うように彼らの【不平】を制します。イエス様は、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしの所に来ることはできない。……父から聞いて学んだ者はみな、わたしの所に来る」と言われます。このイエス様の言葉は、とても興味深いものではないでしょうか。私たちは、イエス様から声をかけられて洗礼の恵みをいただいたように思うのですが、実は、おん父から引き寄せられ、さらに教えをいただいて洗礼の恵みをいただいたのです。おん父は、知らない間にいろいろなことを私たちに教えくださっているのです。それは、【聖人】の行いや教えだけではなく、私たちの周りの身近な人の話や書物を通してであったり、ボランティア活動をしている人の姿を通して、また、何かに対して一生懸命に打ち込む姿、あるいは、自然の雄大さに触れてであったり、さらには、「良心」を通してなど様々な形で教えてくださっているのではないでしょうか。

イエス様は、おん父が引き寄せて来てくださってご自分の所に来た人々を「終わりの日に復活させる」とお約束されます。それがおん父のみ旨だからでした。イエス様は、「わたしをお遣わしになった方のみ旨とは、わたしに与えくださったすべてのものを、わたしが一人も失うことなく、終わりの日に、復活させることである。」(ヨハネ6・39)と言われています。イエス様とおん父は、三位一体の神としていつも一緒でした。イエス様は、おん父のみ旨を忠実に果たされるお方なのです。そのご計画は、私たち一人ひとりを終わりの日に復活させることだったのです。

さて、イエス様は、ユダヤ人たちが大切なことを省いて【不平】を言っていた「わたしが天から降ってきた【パンである】」と言う本題に入られます。イエス様は、「わたしは命のパンである。……わたしは天から降ってきた、生けるパンである。このパンを食べる人は永遠に生きる。」と言われます。イエス様は、おん父から引き寄せられ、ご自分の所にきた人々にパンを与えて養ってくださいます。おん父は、もう死にたいと言うエリアに対して「起きて食べなさい。」と何度もパン菓子と水を持ってきてくださいます。そして、「さもなければあなたは旅することができない」(列王記上19・5〜8)と言われます。私たちは、イエス様の所に引き寄せられ、永遠に生きる【命のパン】をいただいいています。それは私たちがミサの中でいただいている【聖体】です。パウロは、「キリストもわたしたちを愛し、わたしたちのためにご自分を、神へのかぐわしい香りの供え物、犠牲(いけにえ)として渡されたのです。」(エフェソ5・2)と言っています。

私たちがミサの中でいただいている【聖体】は、イエス様が「わたしが与えるパンは、この世に命を与えるためのわたしの肉である」と言われている【パン】なのです。イエス様は、ご自分の所に来た人に【永遠の命】を与えるためにご自分の体で養ってくださいます。私たちはその【聖体】いただいてエリアのようにおん父が示される「福音宣教という【旅】」を続けることができたらいいですね。

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