コミュニケーションの原点 年間第18主日(ヨハネ6・24~35)

旧約聖書の出エジプト記の中で登場しますが、モーセはイスラエルの民を導いて荒れ野を旅します。ところが食料も底がつき、民はモーセに対して不平不満をぶっつけ、人々の心はモーセから離れます。モーセはとても困り果てますが、父なる神は天からマンナを降らせ、それらが人々に与えられることで、人々の空腹が満たされていきます。しかし、それらは空腹を永遠に満たすものではありませんでした。

やがてイエスが到来し、イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とか、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と語ります。モーセがイスラエルの民を導いて体験したこととは明らかに違います。またイエスの時代には、ローマ帝国の支配下のもとでユダヤの社会自体が貧困を強いられ、貧しい人々が数多くいました。目に見える糧と目に見えない永遠の命との対比で、イエスのことばに多くの貧しい人たちは、力と勇気を得たのではないでしょうか。

「飲んだり」「食べたり」というと、何となく不謹慎に感じる人もいるかもしれませんが、アイルランドへ行くと、ちょっと町にもパブがよくあります。「居酒屋」には違いありませんが、ビールやウィスキーだけでなく、ジュースやコーラなども置かれ、家族連れで楽しめるような、とても庶民的な雰囲気の場所です。それは一つのコミュニケーションの場。そうした日常生活の中で繰り返される飲食を、イエスは永遠の命と関連づけていきます。それはイエスと私たちとのコミュニケーションにもなるでしょう。
イエスは私たちのために、十字架につけられ、血を流して命をおささげになります。イエスと私たちとのコミュニケーションの原点は「十字架」から…。

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