僅かな捧げ物という種 年間第17主日(ヨハネ6・1〜15)

きょうの「年間第17主日」のミサの「集会祈願」で司祭は、「飢え渇くすべての人に、あなたはいつくしみの目を注いでくださいます。」と唱えます。私たちは、【飢え渇くすべての人】の一人としておん父からのいつくしみの目を注いてくださっていることに気づき、感謝することができたらいいですね。

きょうのみことばは、イエス様が「5つのパンと2匹の魚」で大勢の群衆を満腹させる奇跡を行った場面です。イエス様は、ティべリアス湖の向こう側に行かれた時、大勢の群衆もイエス様と一緒についていきます。考えてみてください。この群衆の数は男性の数だけで5,000人とありますので女性を合わせるともっと多い人数となります。それだけの人数がイエス様の後についてきたのです。ちなみに「両国国技館」の座席数が約11,000席ですからだいたい同じくらいの人々がイエス様について行ったと考えていいのではないでしょうか。

彼らがイエス様について行った理由は、イエス様が病人たちに行われた徴(しるし「奇跡」)を見たからでした。人々は、この徴を見て自分たちも癒して頂こうと思ったのでしょうし、また、当時の圧政に苦しむ人、イエス様の魅力に惹かれた人、中にはイエス様の徴を見てみたいという人もいたかもしれません。いずれにせよ多くの人がイエス様の後について行ったのです。たぶん先頭の人はイエス様の近くにいたでしょうが後ろの人は、イエス様の姿すら見ることもできず本当にイエス様がこの先に歩いているのだろうかと疑う人もいたことでしょう。

イエス様は、山に登られ弟子たちとともにそこにお座りになられます。聖書の中で【山】は「神の場所、神聖な場所」とされていました。そのようなところで、イエス様を中心に弟子たちが車座になって座り、弟子たちを囲むように群衆が集まってきたのです。イエス様は、フィリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と尋ねられます。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも200デナリオン分のパンでは、足りないでしょう」と答えます。1デナリオンは、1日の労働の賃金でしたから200デナリオンというのは、かなりの額のお金となります。その金額で買ったパンですら群衆に【少しずつ】分けても不可能だとフィリポは判断します。

ちょうどその時、シモン・ペトロの兄弟であるアンデレが「ここに大麦のパン5つと魚2匹持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」と言いにきます。アンデレは、最初にイエス様から招かれた弟子の一人でした。しかし、イエス様が大事な奇跡を行うときには、「ペトロとヨハネとヤコブ」だけを呼ばれ、彼はいつも外されています。その彼が少年からもらった「大麦のパン5つと魚2匹」をどのような気持ちで持ってきたのでしょう。彼の気持ちは、200デナリオン分のパンですら足りないのに、自分が少年から預かった僅かな食べ物では足りない、ということをわかっていました。それでも彼は、少年の優しい気持ちをなんとか生かしたいと思ったのかもしれません。

イエス様は、「人々を座らせなさい」と言われ、パンを取り感謝の祈りをささげて座っている人々に分け与えられます。また、魚も同じようにして人々に分け与えられます。ここで注意してみたいことは、この日は「過越の祭が近づいていたころ」で、なおかつ、イエス様がなさったことは、「パンを取り、感謝の祈りをささげられ、人々に与えられる」という最後の晩餐を思わせるような振る舞いです。これは、イエス様が目で見える形で【徴】であるおん父の業を人々に示さられたということではないでしょうか。

みことばには、「また同じように、魚も欲しいだけ分け与えられた」とありますからイエス様は、パンも魚も人々が【欲しい分だけ】与えられます。そして、彼らがみな満腹して余ったパン切れが12の籠に一杯になるほどの量だったのです。ここに、おん父の寛大さ、いつくしみの愛を見ることができるのではないでしょうか。イエス様は、「少しでも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われます。これは、おん父の業、【徴】を「無駄にしてはならない」ということを教えられているようにも取られます。私たちは、おん父から頂いている恵みに気がついているでしょうか。頂いた恵みに感謝しているでしょうか。いつもイエス様がなさってくださることに甘えていないでしょうか。振り返る時間を持ってもいいのかもしれません。

きょうのみことばは、いくつかのことを黙想することができると思います。自分たちが食べるはずであった僅かな食べ物を差し出した少年の勇気と優しさ、その気持ちを汲んでイエス様に渡したアンデレの気持ち、その僅かなささげもので【徴】をくださったおん父の業など、一つひとつを丁寧にみていくと私たちの心は豊かなものとなるのではないでしょうか。おん父は、この少年の僅かなささげ物で【徴】を示されました。私たちは、この少年のように自分たちの【僅かな捧げもの】を信頼のうちにおん父に渡すことができたらいいですね。

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