41. 母院の創設と会員の増加――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

一九一九年聖パウロ会の修道院はヴィア・マッチニからヴィア・ヴェルナッツァに移転した。そして一九○二年(大正九年)一月、アルベリオーネ神父は、アルバ郊外で、鉄道線路のわきの広い土地を購入した。

しかし、地面が低いので、雨水と下水が、そこに流れ込み、じめじめしてくさかった。そこを整地して、長さ三二メートル、幅一三メートルの五階建ての建築が始まった。これが聖パウロ会の母院の最初の一部なのである。その建築の際には会員たちも志願者たちも休み時間を利用して近くの野原や川原から石や土砂を運んだり、職人たちの手間を少しでも省こうと仕事のしやすい所に石灰やレンガなどを運んだりした。

この建築は一年以上かかり、翌年の一九二一年八月十日、聖パウロ家は創立以来七年間の借家住まいから、ようやく建築中のわが家に引越して来た。その時には、まだ階段もなく窓ガラスもなかった。二階にのぼるには梯子を使い、窓には板を打ちつけた。しかし、わが家とわが庭を持てたということで聖パウロ家は大喜びであった。

一階の半分は印刷工場、半分は製本場、二階以上は寝室になっていた。二階はコンクリートの壁で二つに仕切り、半分は男子部、半分は女子部(聖パウロ女子修道会)が使った。女子部は仕事としては、一階で製本と発送を専門に受け持っていた。そのころ、ここでは、男子部も女子部も一つの家族として、会計もいっしょになっていた。

この年の十月五日に、新しい修道院の建物は落成した。その落成式の日に、最初の一四名の青年たちが、終生誓願を宣立し、他の一五名有期誓願を宣立した。なお「印刷学校」の名を廃して「聖パウロ修道会」の名称に改めた。そしてアルベリオーネ神父は、パウロ家の育成や指導に専念するため、一九二○年九月に神学校での教授職と霊的指導を辞任した。

ところで聖パウロ会の印刷所は、修道院とは別に、あちこち移転したのち、一九二一年八月十日に、現在の聖パウロ会母院内に移転した。

一九二一年後もパウロ会の志願者は加速度を加えるかのように増加した。少年たちは、父兄や主任司祭らにつきそわれて、小さなアルバ駅に降り立った。重い、中古のトランクを背中にかついでいる。おそらく中には、着がえの衣類とかパン、サロメ、チーズ、果物がはいっているのであろう。まず、腹ごしらえに、駅の近くの飲食店へ急ぐ。牛乳をごくごく飲んで一安心。次に町かどの店で絵はがきを買う。あとで親戚、友人に手紙を各ためである。町の絵はがきには、司教座聖堂、町の中心街、鉄道、塔、タナロ川の橋、SL機関車などがのっている。

一九世紀の後半に、支線のアルバ―アレッサンドリア間の鉄道とアルバ―ブラ―カワレルマジョレ間の鉄道がしかれた。汽車が蒸気を吹いてポッポと走り出したころ、ある人びとはにわとりや犬や牛などをつれて逃げ出した。汽車は危険な乗り物と考えられていたからである。

一八六七年(慶応三年)五月三十日、アルバ教区の最初の司教としてアルバに着任する時の話である。鉄道がしかれて二年しかたっていない時なので、到着の前日に、ドメニコ会の修道女たちは急いでサヴォイアの福者マルガリタの遺体のまわりにローソクを置いて祈った。なお司教座聖堂でも信者たちが聖テオバルドの遺体の前で「危険な乗り物でこられる新司教を教区の聖人たちが守ってください」と熱烈に祈ったいた。

二十世紀のはじめまでは自動車は非常に珍しいものであった。それまでは、乗り合い馬車か郵便馬車が町と村をつなぐ交通機関であった。

一九二○年代までは街灯はガス灯で、毎晩それを一つ一つつけて歩く人がいた。朝方になると、またいちいち消していた。それから石油、電気などが少しずつ光熱として使われるようになった。

アルバの町の中心には、ひときわ高く司教座聖堂の鐘楼がそびえ立つ。この司教座聖堂は殉教者聖ロレンツォにささげられたゴチック式聖堂であるが、その正面玄関には四人の福音史家のシンボルが描かれている。すなわちマタイ=天使(Angel)、マルコ=ライオン(Leo)、ルカ=牛(Bos)、ヨハネ=わし(Aquila)のラテン語の頭文字だけを取ってアルバ(Alba)と綴っている。

この聖堂前の道路を通って古い町の中心街を一五分ほど歩き抜けると、聖パウロ会の母院に行きあたる。建てたばかりの、この修道院は、まもなく志願者の群れで満杯になった。アルベリオーネ神父は、第二次建築計画を立て、第一次のと同じく長さ六十メートル、五階建のレンガづくりの修道院を建てることにした。ブルノという建築主任は、この増築計画を聴いて先の建築費の未納金一万五千リーラを支払ってくれるならば、直ちに増築すると言うのであった。彼は必要に迫られて要求したのである。これを理解してあげねばならなかった。

しかし、どのようにしてお金を返すことができようか? 方々の銀行だって担保のない聖パウロ会に、まして海のものとも山のものともわからない事業のために、もうこれ以上、お金を貸すはずがない。だからと言って増築を引き延ばすこともできないのでアルベリオーネ神父は、聖パウロ女子修道会のシスターたちに三日間の祈りを頼んだ。「私の必要とする大切なお恵みも祈ってください」と言うのである。

彼女たちは、いつもの通り、快く承諾した。しかし彼女らにはお祈りによってえたお恵みがあったか、どうかわからなかった。それで、誰よりも好奇心の強い一人のシスターが、腹を決めてアルベリオーネ神父に「何かお恵みがありましたか?」とたずねた。

するとアルベリオーネ神父は答えた。「はい、ありましたよ。私が事務所を出て、階段を降り、庭に行こうとしたところで、大変つつましい面持ちの婦人とばったり出会いました。彼女は、とっさにポケットの中を間座くり、お金を取り出し、私に渡してから一言も言わずにすたすたと帰って行きました。それでその婦人が誰なのか。誰の言いつけで来たのかわからないのですよ。その紙包みの中の金額がなんと、増築を始めるのに必要な一万五千リーラきっかりだったので、びっくりしました。」

神のみ摂理の手は、確かにこの修道会を保護していたのである。アルベリオーネ神父は、増築する修道院につないで小聖堂を建てることにした。この小聖堂は、今日の聖パウロ大聖堂の香部屋にあたる。建築費と生活費を最小限に切りつめるため、できるだけ石のかわりに、レンガを用い、敷地内の空地にはキャベツや麦をつくった。また志願者たちは、職人たちが昼食している間に、仕事の手間を省こうとして、建築資材を工事現場に運んでいた。

またのちには、レンガ焼きのかまどを作り、敷地内の赤土を練ってレンガを焼いた。現在のピアッツァ・サン・パウロ(サン・パウロ広場)は広いジャガイモ畑であった。新しい修道院が立つことになっていた所は、小麦がまかれて大収穫が見込まれていたが、工場のため、惜しくもつぶされてしまった。そのほか、粉ひき場やパン焼きがまをつくってパンを製造し、乳牛を飼ってミルクをつくり、豚を飼育して食肉とした。

さて話は前後するが、レンガ焼きをパウロ会で始めるまでに、レンガ代金の支払いほめぐって、アルベリオーネ神父は裁判所に訴えられた。この事件のことを次に述べよう。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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