生長と成長 年間第11主日(マルコ4・26~34)

2011年の8月にフランシスコ会訳の合本聖書が完成しました。分冊から始まり、この完成までに55年の歳月がかかりました。とても根気のいる作業だったでしょうし、それに携わった方々には、心から「ごくろうさま」と申し上げたいほどです。

瀬田にあるアントニオ神学院に在学中、何度となく聖書研究所を訪れたことがあります。シュナイダー神父さん、セラフィノ神父さん、掘田神父さん、本田神父さん、小澤先生、シスター平井さんなど、たくさんのスタッフが働いていたのが目に浮かびます。

研究所にはたくさんの種類の聖書が並べられ、机の上には翻訳作業中の原稿用紙。400字詰めの原稿用紙に何行か翻訳が書かれ、三分の二くらいのスペースが空けられていました。一見するともったいないなあと思われるのですが、そのスペースにコメントや種々の翻訳が書き込まれ、何人もの目が通されているのが一目瞭然。たくさんの翻訳の可能性を探り、作業が進められているのだなあとつくづく感じました。

その聖書で今日の箇所を読んでみると、「種を蒔く人が夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出し、生長する」(マルコ4・27)となっています。面白いことにマタ13・32にある「芥子種(からしだね)の喩え」、またルカ13・19でも「生長する」が使われています。何となく「成長する」の方が正しいように思いますが、意味を考えて翻訳したのでしょう。

そもそも「広辞苑」で「生長する」「成長する」は次のように記されています。まず「生長する」は、「①生まれ育つこと。②草木などのおい育つこと」。それに対して「成長する」は、「育って大きくなること。育って成熟すること。育ちあがること。おいたつこと」と記されています。ギリシア語では「メクネータイ」が使われ、もともとは「長くなる」ことを意味しています。

私たちは「成長」だけを考えがちですが、今日のみことばのように「生長」の意味をも考えていくと、違った味わいが感じられます。

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