聖体の不思議 キリストの聖体(マルコ14・12~16,22~26)

司祭がミサの中でパンを取り「これはわたしの体である」と、またぶどう酒を杯に入れて「これはわたしの血である」と唱えます。外見からして、パンとぶどう酒がほんとうにキリストの体と血になるのだろうかと疑う人もいるかもしれません。その昔、同様な疑いを持ちながらミサをささげ、この聖変化の言葉を唱えていると、突然血が流れ出たという不思議な出来事があった話を聞いたことがあります。

中世期の神学者でトマス・アクィナスという聖人がおります。少し古い祈祷書の中に、「聖体に対する聖トマの祈」(アドロテ)という(文語体ですが)、次のような祈りがあります。「パンの形色のうちにまことにまします隠れ給う天主、今うやうやしく御前に礼拝し奉る。われは主を認むる力足らざるにより、わが心を全く主に従わせ奉る。ここに今、見、触れ、味わうところにみにては、これが主なることを認め難けれども、ただ耳に聞けるところによりて確信するなり」(『カトリックの祈り』231頁参照)。あれほどの大神学者とはいえ、この聖体の秘義は、最終的には信仰に頼らざるを得ないことを語る謙虚な祈りです。

聖体の意味を考える時、旧約の出来事を思い起こす必要があります。第一にアブラハムにおけるイサクの奉献。神様はアブラハムに愛する独り子イサクをモリヤの地に連れて行き、焼き尽くす献げ物としてささげるように命じます。アブラハムは神に命じられた通りに薪を割り、命じられた場所へ行きます。イサクを縛り、刃物を取って、イサクを屠ろうとすると、神様はみ使いを通して、アブラハムの信仰を受け止め、「その子に手を下すな」と命じ、イサクの代わりに一匹の雄羊を焼き尽くすいけにえとして献げます(創世記22章)。

また過越においては、傷のない一歳の雄羊を屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗り、その夜、肉を火で焼いて食べます。こうして主が過ぎ越していきました(出12章参照)。

これらの出来事は、動物の血によるいけにえでしたが、新約においてはイエス自身の血が十字架上で流されることになります。まさに御父である神様の無償の愛が示されていきます。父である神と子であるイエスの深い愛を思いながら、聖体をかみしめたいものです。

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