34. 会員の養成に大活躍――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

アルベリオーネ神父は、事業よりも、まず人材の育成が先決問題であり、パウロ会の将来性にかかわる問題であることを見抜き、会員の養成に心血を注いだ。神父は教育の理念をこう述べている。「教育には出発点として一つの土台、つまり正しい人間であることが必要である。その上に、善いキリスト者、神の子が形成される。この善いキリスト者から聖なる修道者が育成される。それは修道士であったり、司祭であったりする。この聖なる修道者こそ偉大な使徒聖パウロを模範とした使徒になることができる。」

要するに神の似姿として創造された人間は、教育によって個人的にも社会的にも成熟してゆく。完成されたパウロ会員は、人間としても、キリスト者としても、修道者としても、司祭としても、りっぱでなければならない。人間としての成熟は、体力、倫理的、知力の面で調和よく発達させることであり、キリスト者としての成熟は、救いの秘義についての知識と実践を伴う信仰が年とともに増加することであり、修道者としての成熟は、福音の勧めをよりよく実践し、キリストによりよく従いながら神の生命により深くあずかることであり、司祭としての成熟は、師であり、司祭であり、牧舎であるキリストの手本にならって、魂の真の牧舎になることである。

パウロ会の修道者の養成目標は、神や教会の秘義をよりいっそう理解し、福音的勧告と聖パウロの手本に従ってキリストを見習うこと、またパウロ会の広報使徒職を通じて現代の人びとに寛大に奉仕してゆくことである。それには、まず一般教養の知識、誠実や正義感や忠実さや友情や親切などの健全な精紳と体力とのバランスのとれた育成を心がけ、一般の中学、高校、大学課程を修徳させる。パウロ会では、会内で中学高校のコースをつくり、のちには神学までも教えるようになった。会内で行う授業には、アルベリオーネ神父自身が何科目も受け持った。パウロ会の司祭はもちろん、パウロ会の神学生たちも、会内で、あるいは外の神学生で神学を学ぶかたわら、中学、高校のコースのパウロ会志願者に、種々の学科を教えていた。

初期の志願者は、中学、高校課程を会内で学ぶほかに、よその中学、高校、神学校に通って勉強し、パウロ会の修道院に帰ってからは、会内での印刷、製本、発送、販売普及などに励むというぐあいに苦労していた。

一九一七年のある日、アルベリオーネ神父は、志願者のコスタ、アルマニ、マルチェリーノの三人を呼び、こう話した。「まじめに勉強のことを考えねばならない。おまえたち三人は、リチェオ(高校及び大学課程)を、はじめなさい。哲学は私が教えよう。イタリア語のテキストを使いますから。自然科学は、カノニコ・キエザ神父(アルバ神学校教授)が喜んで教えてくれるそうです。その後は神学の世紀コースに進みなさい。ほかのことは各人のできる範囲でやって行きましょう。」

しかし、実際に三人とも中学一・二年を終わった学力しかなく、中学三・四年を飛びこえて、リチェオの課程をこなすのはむずかしい。フランス語、ギリシャ語、ラテン語の基礎も、中学課程で習うのだから、この基礎なしに哲学はむりであった。その上、アルベリオーネ神父はアルバ神学校の教授職を兼ねていたので、神学校関係の仕事も多く、会員たちの養成に専念できない。おまけに修道院に勤めるコックが病気でもすれば、アルベリオーネ神父が会員たちのために食事を準備するかたわら、若い会員に講義することさえあった。

アルベリオーネ神父の当時の講義について、カルロ・ボアノ神父(戦前から来日しているパウロ会員)は、次のように述べている。

「アルベリオーネ神父は広く、多様な知識を持っていた。同じたやすさで、しかも直接、特別な準備もなく、いろいろ異なったことがらに専念することができた。ある教師が授業に出ることができなくなった時など、わたしたちはアルベリオーネ神父を呼びに行くのが常であったる彼のことのほか緊急な仕事がない限り、犠牲をはらっても授業に来し、その授業を上手に、あたかも一週間前から準備したかのような調子で続けたものである。倫理神学、司牧神学、教会史、典礼、教会芸術……など、どれを取り上げても決して『準備のため、一五分待ってください』などと言ったためしがなかった。いつも準備していた。勉強以外に、神学校時代、彼は非常に多くの本を読んだ。そしてそれは、最良の準備となっていたのである……」

次にアルベリオーネ神父は、経歴が示すように祭式の式典長を長い間やっていた関係上、典礼祭儀を荘厳に行うことに心がけ、グレゴリオ聖歌や教会音楽を非常に重んじた。これについて、ボアノ神父は、こう回想している。

「アルベリオーネ神父は、私がまだ神学生だったころ、私をグレゴリオ聖歌の先生に任命した。その上、私の講義を重視するため、しばしば神父自身が講義に参加した。私の教え方に、みがきをかけたいと望んでいたからである。その当時、私たちの歌い方は、めちゃくちゃであった。しかし、それも徐々に改善されていった。実際、パウロ会の神学生たちのあるグループは、教区の神学生が不在の時、司教座聖堂で歌ってくれるようにと頼まれた。司教座聖付オルガン奏者はオルガン伴奏をしばしば中断した。この人は音楽について非常に厳しい人であった。それで私は、ある日、どうして伴奏をやめるのかとたずねてみた。私たちの無能のためではないかと恐れたからである。しかし彼は私に『私が伴奏をやめるのは、あなた方の歌を聞きたいからです』と答えた。」

そのほか、パウロ会の神学生たちは、ミサ典書を編集して出版し、さらに「教会とキリストにおける生命」という典礼公報を出した。

また若い会員たちは、週刊新聞を出すために、活字を拾い、植字をし、印刷機を回し、汽車や自動車の時間表に合わせて発送しなければならないので、どうしても授業を休まねばならない時がしばしばあった。それでも、わずかの時間を見つけて、刻苦勉励し、コスタにしてもマルチェリーノにしても、のちに社会学の学位を取っている。

聖パウロ会は、ややもすれば外部の人の書いたものを編集し、印刷し、販売する、いわゆる出版屋みたいに誤解されがちであるが、アルベリオーネ神父の考えによるとそうではない。みずからもペンをとって四○冊以上の本を著述し、新聞、週刊誌、パンフレットなどに無数の記事を書いて、こうパウロ会員に教えさとしている。

「私たち会員が書かないで、ただ他の人の書いたものを選ぶだけなら、私たちは使徒職をやっているのではなく、営業をやっているにすぎない。この歩みがなければ他の新しい企てもできない。いくつかの私たちのおちいりやすい誤りは、機械や機械工の進歩を計るのが使徒業であるという考え方である。そうでなくて使徒業は、書くこと。印刷すること、普及することである。

良い出版物だけでなく、フィルム、電波映像も出さねばならない。

編集、技術、普及は々使徒職を構成する三つの要素であって、この使徒職を通じて神の拡声器となる。司祭著述家、技術者、普及者は会憲の文面とその精紳によって一つの々使徒業に結ばれている。 聖パウロは手紙を考案し、それを口述させ、自らそれに署名した。善意のキリスト信者は、それをいまつも筆写して、方々にくばったのであった。」

アルベリオーネ神父はパウロ会司祭が何よりも著述家という使徒になることを切望していた。

「著述家である私たち司祭は、ミサ聖祭が終わってから著述しよう。イエスの御血が、十字架から流れ、私たちを満たし、満ち溢れて読者たちの中に流れ込むための管となろう。 ……司祭である著述家よ、効果の大小はあなたのペンよりもあなたのひざまずきによって決まるものだ。

あなたの書き方よりもあなたのミサによって決まるものだ。あなたの知識よりも、あなたの良心の糾明によって決まるものだ。

……在俗の著述家は光の反射をする。あなたの道をしるし、生命を伝えることもしなければならない。洗者聖ヨハネのように、聖パウロのように、うまずたゆまず叫びなさい。罪を遠ざけ、すべての人に徳を示し、手本と聖霊の力を伝えなさい。

……私たちは趣味とか名誉とか儲けとかのために働きたくはない。また出版物自体を望むものではない。私たちは出版物をもって神を探すのである。

口で述べられるみことばに加えて公報機関で述べられるみことばも必要である。私たちは書かれたみことばを与えるために教会の中にいる。私たちの使徒職は聖師の使徒職、すなわち『行って、すべての被造物に福音を伝えよ』という使徒職を続けることである。」

以上のようにアルベリオーネ神父は、独創的な教育理念や新鮮な養成目標をかかげて、志願者や会員の養成に全力を傾けたが、パウロ家の人たちは、どのように、その指導に従って行ったのか。これを述べる前にパウロ家を取り巻くイタリアの社会状態を次にいちべつすることにしよう。 一九一四年(大正三年)八月から始まった第一次世界大戦は一八年(大正七年)十一月ドイツの敗戦でようやく終わった。

イタリアは戦勝国の一員であったが、パリ講和会議において国民の要望したフィウメとアルバニアの領有も認められなかったことに対して強い不満を持っていた。四年間の長い大戦で国内の生産は衰え、失業者は増加し、物価があって財政は悪化し、農民の反抗もあって国民生活は苦しかった。共産主義勢力が増大し一九二○年(大正九年)社会党左派のもとに、北イタリアの工業地帯を中心にしてストライキがおこり、労働者は一時工場を占領して、その経営を管理するに至った。しかし、これが失敗に終わると、共産主義に対する国民の信望は地におちた。こうした混乱の中で、ムッソリーニのひきいるファシスタ党が反共団体として生まれた。この党は、イタリア人の国民意識を高める国粋主義者を結集したもので、共産党打倒を目標にかかげ、資本家、中産階級、軍人の支持を受け、財政難のため弱体化していた政府を打倒せよと叫んだ。

アルベリオーネ神父は、こうした混乱した戦後の社会にあって、ファシスタ党よりも穏健に、じみに社会の立て直しを狙い、「カゼッタ・ダバル」というという週刊新聞を活用し、さらに神学生の養成にもこれを役立てた。次にアルベリオーネ神父の並々ならぬ社会運動の手腕を紹介しよう。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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