パウロの回心と人の個性 夫津木昇神父

今、あらためてパウロの生涯に思いを馳せています。

パウロの生涯において、わたしたちが注意を払わなければならない重大な出来事の一つは、かれの「回心」であることは言うまでもありません。 

それは単なる方向転換でも、軌道修正でもなく、完全な「再生」であったからです。あえて言うなら、キリストの死と復活によってもたらされた恵みによって、パウロが「復活」させられた、とでも言うことができないでしょうか。

一人の人間という視点から見れば、回心した後も、回心前と全く同じパウロという人間が存在し続けた。逆説的な言い方をすれば、同じパウロであっても以前のパウロではない。

一方、別人になったパウロではあっても、彼が生来持っていた人間の自然的な要素や性格が失われたわけではないことにも気付きます。パウロの、最高点を目指して走り続ける意志の強さ、敏感で感激しやすい熱血漢、使命に対する忠実さ、神に対する絶対的な服従と行動力など、どれを取り上げてみても、回心後に身につけたものではなく、初めから持っていたもののようです。

「パウロほど多くの、相反する資質を持った人間は過去にはいなかった。かれは当時の文化社会に生きる三種の人間のタイプを総合したような人物であった。すなわち、かれはギリシア人のごとく思索の人であり、ローマ人のごとく活動の人であり、東洋人のごとく情熱の人であった。」(A.ブルーノ)

回心後のパウロは、それらの個性を純化させ、高めました。パウロは持っていた能力・個性すべてをイエス・キリストとイエス・キリストの福音宣教のために奉献しました。パウロの性格そのものは全く変わることなく、一生を通じて持ち続けたように思います。

修道生活は、絶え間ない回心によって深く、豊かになると言います。

修道会の中にあって、修道者個人が生来持っているものの見方や考え方、生き方、つまり人の個性は変化するのだろうか、あるいは、変化させなければならないのだろうか。

基本的には、パウロの場合と同じように変化しない、させられない、と言えると思います。ただ個性を支配しているのが─それが無意識なものであろうと─人間個人の思いなのか、キリストの思いなのか、によって違ってくるものでしょう。

ここでややこしい問題が生じます。人がまじめに考え、確信を持って導き出した結論が、修道会の現実や流れにそぐわない場合です。あるべきとされる修道会の理想と現実を前にした個人の理解です。そこには往々にして大きなギャップがあることも否定できません。

「キリストがわたしのうちに形造られる」には、イエス・キリストの恵みがくだり、強制的に人を「回心」させるのを待つ以外に方法はないように思われます。

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