一律へのチャレンジ 鶴田正広修道士

「召命の危機」ということばが聞かれるようになって久しい。私たちの修道会も例に漏れず、六十歳代から五十歳代の会員が多く、それが四十歳台になると徐々に少なくなり、その下に至っては極端に少ない。つまり、会員の大半が、第二次世界大戦後三十年以内に入会していることになる。

それは、あえて指摘するまでもなく、当時の社会的・経済的要素が大きく影響している。それを考慮すれば、今の時代では召命の少ないこの状態が普通の姿であり、各修道会はそれなりにやっていく必要があるのだろう。

それはともかく、気になることがある。それは、終生誓願宣立後にもかかわらず、少なくない会員が退会していくという事実だ。第二バチカン公会議後に退会する会員が多くなったことは、教会自体が激変したのだから、やむをえないことかもしれない。

しかし、公会議の新しい路線が各国の教会に定着し、激動の時期があったことすら忘れられはじめたころ、修道者としても十年以上の経験を積んで、俗にいう「脂ののった」修道者が、退会していく。

「そんなこと、蒸し返すな。人それぞれ理由があるんだ。それに、退会する会員がいるのは、なにもうちの会だけじゃない」という声が聞こえてきそうだが、そう簡単に割り切れることではなさそうだ。

では、なにか理由があるのだろうか。もちろん、「これが原因だ」という確たるものを示すことはできない。しかし、まったく心当たりがないわけでもない。それはどうやら、私たちのもっている価値観に関係しているようだ。

少し、日常生活を振り返ってみよう。朝のスタート、朝の祈りとミサ・黙想。一部の健康に問題のある会員を除いて、ほとんど全員がキチンと参加している。これは、すばらしいことだ。喜ぶべきことであり、なにも問題はない……ようにみえる。夕方の聖体訪問も、使徒職の都合で一部の会員が参加できないことを除けば、おおむねキチンと果たされているようだ。

これも、問題はない……ようにみえる。むしろ、「世界的にも誇れる管区」といえるかもしれない。

では、なにが問題なのか。それは、私たちの中にある「一律意識」なのではないか。もっと正確にいえば、「同じであること」にしか目を留めていないことが問題なのではないか。同じことをみんなで、それも忠実に果たすことは、実にすばらしいことだ。

しかし、その根底に「同じでなければならない」という価値観しかないとしたら……。

もし、なんらかの理由で同じでない状態になったなら、あえて誤解を恐れずに言うなら、その会員は排斥されるだろう。これは、物理的なことでは起こらない。病気で寝たきりの人が共同の祈りの時間に聖堂にいないからといって、だれも問題にしない。それは物理的に無理だからだ。

ところが、精神的なこと、霊的なことになると、そういうことが起こりうる。物理的には共同生活をしていても、精神的には孤立している人がいないともかぎらない。いや、それこそ、この問題の最大の要因なのではないだろうか。

いうまでもないことだが、同じであること、一律であること自体が問題なのではない。その価値観の出発点がどこにあるかが問題なのだ。共同で生活していることが最重要なのではなく、「神を中心とした共同体、神と人びとへの奉仕を価値観の中心に置いた共同体」であることが最重要なのだ。

「義務感」が最重要なのではなく、「愛」が最重要なのだ。たとえば、聖堂にいるか・いないかがいちばんの問題なのではなく(もちろんそれも、「どうでもいいこと」ではない)、その人が神とつながっているかが最重要なのだ。

この差は、外見的にはわかりづらいかもしれない。しかしそれは、共同体が「神秘体」になるか、たんなる「共同生活者の集団」になるかの境目になることだろう。私たちは、一律そのものにではなく、一律の基礎にあるもの、すなわち神に価値を置かなければならない。

召命を生きるとは、自分の救いにのみ固執することではない。そこにのみ価値を置いているなら、その人は少なくとも修道者ではない。修道者とは、神と人びとに奉仕する人であって、自分に奉仕する人ではないのだ。すべては、神と人びとへの愛から(修道会であれば当然、兄弟愛から)始めなくてはならない。

その意味で、私たちは、自分たちの「一律であること」にのみ固執する貧しい価値観から脱却し、もっと豊かな価値観をもつよう、日々チャレンジしていく必要があるだろう。

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