天の元后聖マリア

「天の元后聖マリア」の記念日は、1954年、ピオ12世の回勅『Ad Coeli Reginam』によって定められたもので、聖母の被昇天の祭日から8日目にあたる8月22日に祝われます。神の子イエス・キリストの母として選ばれ、キリストを身ごもり、この世に生み、育てるという特別な恵みを受けたマリアは、その死後、すぐに天に上げられました。そればかりでなく、王であるキリストとともにあって、すべてのものの「女王」(ラテン語でregina、「元后」と訳されている語)としての務めを受けました。この記念日は、キリストの救いのわざにおぴて特別な役割を果たしたマリアの天上における神秘をたたえるとともに、今もマリアはわたしたちがキリストに従う者として生きることができるよう天ではたらいておられることに信頼を寄せる日です。

福音書によれば、マリアはイエスの誕生や幼年期を除き、あまり大きな役割を果たしていないようです。イエスの誕生のときも、マリアはイスラエルの中心都市エルサレムから離れたガリラヤ地方のナザレという小さな集落に住む一人のおとめとして登場し、そこで天使のお告げを受けています(ルカ1・26)。これは、洗礼者ヨハネの父ザカリアが神殿の聖所で祭司としての務めを果たしていたときに天使のお告げを受けた(1・8-11)のとは対照的に、実にみすぼらしい印象を与えます。マリア自身、みずからのことを「主のはしため」(1・38)、「身分の低いはしため」(1・48)と呼んでいます。地上でのマリアは、「天の元后」、「天の女王」と呼ばれるにはまったくふさわしくないように思えます。マリアの天上での王職は、すべて神の恵みによるものなのです。

お告げのときに、「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う」(1・35)と宣言されたマリアは、この唯一無二の神の恵みによって、また「お言葉どおり、この身になりますように」(1・38)との信仰によって、胎内に神の子イエス・キリストを宿し、文字どおりキリストと一致しました。このため、神はマリアがその死後もキリストと離れることをお望みにならず、恵みによって天に上げられてからも、キリストの天上での王権にあずかるようにお定めになったのです。

天の元后聖マリアの記念日を荘厳に祝うミサでは、ルカ福音書1・26-38が朗読されます。これは、マリアが神の子を身ごもるということを天使から告げられる場面です。天使が語る言葉は、マリアにとって驚くべきことでした。「あなたは身籠って男の子を生む。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者となり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになる。彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続く」(1・31-33)。これは、サムエル記下7章に記されているダビデとその子孫への神の約束を思い起こさせる言葉です。イスラエルの歴史をとおして待望されてきたダビデ家に連なる王、来るべきメシアが、今マリアから生まれると言うのです。マリアは天使の言葉を理解することができません。そのすばらしいメッセージに行き着くより先に、男性との関係をまだ持っていない自分が子どもを生むという言葉を受け入れられず、そこで止まってしまうのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(1・34)。ところが、天使の言葉はさらに深いものとなっていきます。「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(1・35)。マリアは、すべてを理解できたわけではありません。エリサベトが高齢でありながら、不妊の女と言われていながら子どもを身ごもったことが告げられて(1・36参照)、はじめて神の力を信じることができたのかもしれません。しかし、それでもマリアは最後にすべてを神にゆだねます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(1・38)。

マリアは信じて、自分に起こるこの神秘を受け入れました。しかし、だからといって、すべてを理解できるようになったわけではありません。イエス・キリストを神殿に奉献するとき、預言者シメオンが幼子について言葉を述べたときも、マリアはそれを理解できません。「父と母は、幼子について言われた言葉を聞いて、不思議に思った」(2・33)。イエスが12歳のときに起きた出来事の中でも、同じようなことが述べられています。「両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった」(2・50)。イエス・キリストの神秘、救いの神秘は、人間の思いを超えているのです。

このマリアが、今、天でわたしたちの女王となってくださっています。マリアは、わたしたちの弱さを知っておられる方です。わたしたちが神の救いのわざや恵みをなかなか理解できないことを、身をもって知っておられます。信じていながら、神のはたらきに鈍感で、理解に遅いわたしたちのこの歩みを、みずから体験された方なのです。このマリアが、わたしたちのために、王であるキリストに取り次いでくださいます。だから、わたしたちもとまどいながら、マリアに力づけられ、マリアのように「これらのことをことごとく心に留め、思い巡らし」(2・19)ながら、神を信じ、「何でもこの人の言うとおりにしてください」(ヨハネ2・5)と招くマリアにしたがって、歩んでいくことができるのです。

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