28. 聖パウロ女子修道会を創立 ――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

一九一四年(大正三年)に細々と発足した聖パウロ会は、第一次世界大戦の荒波をもろにかぶった。出版使徒職に必要な紙、活字、インキの他に、衣食住すべてが不足し、値上がりした。

「なんで、こんな不景気の最中によりによって事業を始める。失敗は目に見えている。若い人をだまして、その将来を台なしにする」などと、アルベリオーネ神父を非難する声が教会の内外からひっきりなしにごうごうと起こった。なかには、司教や教皇庁へ事業停止を訴える者もいた。おまけに、アルベリオーネ神父はからだが弱く、修道会の創立という重責に耐えられないみたいであった。

それでもアルベリオーネ神父は、マスコミを目的とする男子修道会のほかに、女子修道会をも創立し、彼女らを通じて良い出版物を刊行させ、普及させようと考え、こう述べている。

「男子は女子がいなければ、不完全な状態にある。心に疑いが浮かべば、歴史をふりかえってみよう。人類の偉大な恩人や大聖人のかたわらには、常にその事業ほとんど完成させるほどの女性の姿が見られる。聖ベネディクトのそばには、聖女スコラスチカが、サレジオの聖フランシスコのそばには、聖ヨハンナ・シャンタールが、聖ヨハネ・ボスコのそばには、聖女マリア・マツァレロがいる。」

アルベリオーネ神父が、これらのことを書いていた一九○○年の初頭(明治三○年代)には、修道院内で静かに祈り、施しを求める修道女ならいざしらず、広報機関を使い、キリストの女性の使徒として路上を歩く修道女なんて夢物語であり、気違いざたであると一般に思われていた。

それでもアルベリオーネ神父は神に信頼し、従来の偏見を打ち破る刷新に乗り出した。一九一一年から神父は、修道女を募集するために一冊の本の著作を手がけていた。これは「司祭の熱誠に協力する女性たち」と題する本で、司祭と協力する女性はどれほどたくさんのことが゛てきるかということを解説したものであり、特に出版使徒職や社会的使徒職では女性に何ができるかという説いている。

修道女であったらもっと大きなことができるであろう。こういう修道女は、祭壇でいけにえをささげる司祭のかたわらにあって人びとに福音を告げる、あの助祭の使命に似ている。つまり、祈りと、真理の普及に全生涯をささげて、司祭的使命に協力することなのである。イエスは、“友のために生命を捨てるよりも大きな愛はない”(ヨハネ15・13)とおおせられる。

このような主旨に共鳴した教会の主任司祭たちは、イタリア内外から修道女志願者を紹介してくれるようになった。

またアルベリオーネ神父も自身も教会司牧のさいには、有望な少女たちに目をつけて、教理を教え、霊的指導をしていた。すでに新しい修道会のカラシ種は、創立者の苗床にまかれていたのである。これには、アルバ市の聖コマス聖ダミアノ教会の主任司祭フランシスコ・キエザ神父の勧めや協力会を組織し、カトリック要理と教育学を教えていた。

この処女の中にアンゼラ・マリア・ボフィというという女性がいた。アルバ市の大会社に経理士として勤め、キエザ神父の指導で教会活動を活発にしていた。当時、三○代の働き盛りであったが、長年修道生活への夢をいだいていた。アルベリオーネ神父は、キエザ神父からこの女性を紹介され、霊的指導をするようになった。

一九一五年ボフィは、神父の事業に共鳴し、母親と一緒に住んでいた自分の家を開放し、アルベリオーネ神父の集めていた少女たちを住まわせた。この人たちこそ、のちに重大な使命を帯びる新しい苗木のようなものであった。神父がなぜ少女たちを集めるのか、ボフィにも最初は理解できなかった。ただ、町に働きにくるか勉強にくる少女たちに、安全な宿舎を提供しているのだろうと思っていた。

とにかく一九一五年の六月に、数名の少女たちはケラスコ広場の家で仕立屋を始めた。これが聖パウロ女子修道会の始まりである。ここは聖パウロ会の「印刷学校」と呼ばれた所で、新聞を印刷していた部屋の片すみを作業場にあてた。そこで、第一次大戦に出兵している将兵の制服やシャツを縫ったり、穴かがりをしたり、ボタンをつけたりしていた。

この時、のちの聖パウロ女子修道会の初代総長テレザ・メルロがはいってきた。住居は、ボフッの家であったが、翌年アルバ市のアカデミヤ通り五番地に移転した。ボフィの母エルメリンダも一緒に住み、家事の手伝いをしていた。ボフィは以前のように会社の勤めを続けながら教師の免許を取ろうとしていたので、一日中少女たちのめんどうを見きれなかった。それで、一九一七年三月からはテレザ・メルロがボフィの助手となり、少女たちに刺しゅうを教えながら、聖パウロ会から印刷された新聞・書籍を本だなに並べて売っていた。

戦争の終わりごろは、洋服の仕立てをやめて、聖パウロ会の製本を手伝った。この団体に対しても非難の声が上がった。「教理を教えるのならともかく、インキやノリを塗り立てることが、なんで少女たちの使徒職になるのだ。笑わせるな」というのである。当時としては全く型破りの修道院だつたからである。

一九一八年、トリノ市のスーザ町に一つの文房具店が売りに出された。そこには、名刺やパンフレットを刷る機械が二、三台あった。トリノの教区長がアルベリオーネ神父神父に、「この家を買い取って、出版布教をしないか」と勧めた。

アルベリオーネ神父は、男子のほうは始まったばかりでまだ基礎が固まっていないから、女子部にお願いした。「スーザに行きなさい。三、四年間そこにいて静かに働きなさい。そうすれば主はあなた方のために何かしてくださるでしょう」と。ボフィは一九一八年十二月、神父の意向通り、自分の財産を売って、その文房具店を買い取り、修道院にした。そこに聖パウロ会の青年(のちのマルチェリーノ神父)も住みこみ、しばらく印刷機械の使い方を教えていた。そしてトリノ教区の週刊新聞「ラ・ヴァスーザ」(La Valsusa)編集、印刷、販売、発送をしていた。

一九二二年、テレザ・メルロがこの修道院の長上に選任されると、ボフィは退会して、スーザのフランシスコ会第三会にはいり、マルセーユの観想修道会に移り、二六年に病死した。

その後、聖パウロ女子修道会の修道女たちは、「行って、福音を述べ伝えよ」という主イエスの勧めに従い、全世界の教会、学校、家庭、事務所、工場、デパートへ行って神の光栄と人びとの救霊のために、広報機関を通じて、神のみことばとカトリック教義の普及に全力を尽くしている。この会の修道女たちは、道・真理・生命である聖師イエスを研究し、知性を尽くし、心を尽くして神を愛し、聖師の模範にならう。また最高の大司祭イスエのそばにいて、教会の善のために温順かつ能動的に協力した完全な女性マリアにならい、司祭と協力して神のみことばを告げる。

教皇パウロ六世は彼女らのことをこう述べている。「これら、……りっぱな修道女たちは、いたる所へ行く。どこにでも行く蟻のことを考えさせられる。……私たちは大自然の示している例を見て、蜜蜂のことを考えてもよい。蜜蜂は巣をつくり、蜜を持って来て、あちこち飛び回ってから、その中心に戻って行く。彼女らは本当に……共同体感覚、生きている者同志の社会感をつくっている……」と。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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