主の招きに従う 年間第3主日(マルコ1・14~20)

先生たちが自分の後継者を探そうとする時、できるだけ優秀な学生を自分の弟子にしようとするのではないでしょうか。しかも自分の意志を素直に受け継いでくれそうな、支障のない学生を…。

キリシタン研究をしているある大学の先生がこんなことを話していました。この研究のためには、キリシタン時代のことをよく知る必要があり、教会の公式文書として使用されていたラテン語の他に、スペイン語、ポルトガル語、さらには日本語の文語体や筆字の草書体などを理解できる人が必要だと語っていました。確かに教会の文献だけではなく、江戸時代に書かれた文献も読む必要があるので、多岐にわたるし、そうした研究の後継者ともなると、とても大変だなあと話を聞きながら思いました。
イエスの場合はどうでしょうか。イエスは大都会のエルサレムからではなく、人が少ないガリラヤ地方から福音を宣べ伝え始めます。私たちだったら単純に、大都会のエルサレムから始めていけば、とても効果的なのになあと思いますが、私たちの思いとイエスの思いはかけ離れています。

また最初の弟子たちは、ガリラヤ湖で漁をしている人たちです。決して優秀な学生たちではありませんでした。イエスの教えを理解するにも時間がかかり、イエスに怒られたりすることもたびたびありました。しかも漁師をしている人たちですので、当時の社会では机に向かって勉強するというよりも、漁に専念する機会が多かったことでしょう。そうした具体的に仕事をしている人たちの中から選び、声をかけていきました。「わたしについて来なさい」と…。彼らは生活の糧を全て捨てて素直に従っていきます。これからどんなことがあるかもよく分からず、従っていきました。こうして選ばれた弟子たちは、ヨハネを除いて、みんな殉教していきます。

主の呼びかけはとても単純で、素朴なものがありますが、それは同時に、殉教を呼び起こすほどのもの求める招きでもあるように思います。

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