私の召命は私にも解らない 高木進修道士

私が聖パウロ修道会を知ったのは23歳のとき、家に何気なくおかれてあった『希望の丘』と「聖パウロ会50年のあゆみ」に目が留まりました。そのころは印刷関係の会社に勤めていましたが、予期せぬ病気で大手術することになりました。ベッドに横たわり、身体を動かすことの出来ない私を、母は24時間付き添ってくれました。主任神父様もご聖体を持って毎日と言ってよいほど見舞ってくれました。1か月半の入院生活の間やることがないので、神父様からお見舞いにいただいた聖書などを読んでいました。幼児洗礼であっても、それまで聖書を読んだことがないような気がします。

この入院生活で感じたことは、何か自分も金銭に囚われずに人びとに仕えることが出来たらと思い、パウロ会の冊子をもう一度読み直してみました。読み直しているうちに、自分が今携わっている仕事と関連があり、またその仕事(使徒職)が直接神様のために行っていることに心が惹かれ、休日を利用し、東京・赤坂修道院を訪問し、工場内を見せていただきました。二度目は会社の出張を利用して修道院に泊めていただきました。偶然にも翌朝のミサは「主の奉献」を祝っていました。

しかし、私はすぐ修道生活に入るという決心がついたわけではありません。家庭生活にも未練を抱かせる一つの理由があったからです。それは前もって私の家庭生活のために必要な土地を市役所から買ってありました。この土地は契約して二年の間に建築しなければならないという契約なので、市の方から催促の通知が届いたのです。とにかくやむを得ず建築に着手しました。

この家が出来あがるにつれて私の考えも多少ぐらついてまいりました。別に修道会に入らなくても、家庭において素直に信仰生活をすればよいではないかと思ったりもしました。でも心のどこかに、このまま家庭生活に納まることが承諾出来ず、空白を感じました。父は伝道士でしたけれども、私の性質上、言葉をもって布教に従事することは適していないので、もっと自分に適した、出版を通じての布教に携さわる聖パウロ会への魅力をもすてがたく、一切の迷いを振り捨てて修道会入会を決心しました。

入会してから暫らくして、パウロ会が他の修道会となんとなく異なっているような気がしました。それがなんだか解らず「修道会ってこんなはずじゃない」と、悩んだこともあります。そのとき自分に言い聞かせたことは「神様が、無に等しいような私をこの修道院に招いてくださった。他の修道院に入ったとしても神との関わりは変わることはない。神様が私を招いてくださったのだから」と。その反面、感謝することもたくさんありました。スポーツはもちろん、あらゆるものに鈍感な私を少年たちが一つ一つ懇切丁寧に教えてくれてたことです。

終生誓願を八王子修学院で迎えた後すぐに東京・若葉修道院に移動し、今まで体験したこともない営業部門に席を置きました。その時の部長さんは、日本のパウロ会員を増やすために労苦を惜しまなかったパウロ山野忠次郎修道士です。ここでの使徒職は、広告、発送、書店訪問など直接お客さんと接する機会の多い部署です。北は北海道・網走、西は広島、四国・高知まで一般書店を訪問したこともあります。訪問先で店主たちの返って来る言葉は、「店舗は限られたスペースなので、いくら内容がよくても客の目に留まらない本は書棚から外す」というのが合言葉のようでした。

昭和から平成に変わった時、八王子の印刷工場は閉鎖し、出版部門と営業部門に統轄され、再び営業部門の任務に携わりました。時には、ワゴン車に書籍・聖品を満載し東北方面に宣教出張に出かけたこともあります。また、一店員としてサンパウロの聖品フロアーに携わりました。このフロアーは、いろいろな品物が展示してありますので、用途に合わせて求めるお客さんの職種も年齢も、信者・求道者を問わず、さまざまな方が来店します。「自分はキリスト教ではないが家内がキリスト教だったので祭壇を買いたい。」「この種類で首に掛けるロザリオはないですか?」「聖水は置いてないですか?」。毎日毎日違う「顔」と「会話」で、それぞれの人たちの神との結びつきを感じます。

それから、召命の担当にも任じられ、一瞬心臓が止まるかと思いましたが、よく考えてみると、病気によって神様が私を招きだし、その時に応じてその務めを与えて下さっているのです。神様の計らいは限りがありません。

環境が変わることによって得ることもたくさんあります。教会を訪問していると素朴な信仰生活に生きる信者さんたちを目の当たりにします。

1パーセントの人間の弱さが目立って、人を傷つけてしまう時代の中で、神様に操られている私は、いかに恵まれているか感謝せずにはいられません。

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