23. 聖パウロ修道会創立までの経過――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

アルベリオーネ神父は、神学校の教授、学生の霊的指導、信者の司牧だけに終わる人物ではなかった。神のみことばや教会の教えを、より多くの人に伝え、しあわせにしたい、という望みを神学生時代から抱いていた。それには、時代の先端をゆくマス・メディアを活用することだ。ことに当時は、新しいものと伝統的なものとが反目しあって、ある種の混乱が生じていた。アルベリオーネ神父は、当時の世相をこう分析している。

「社会面では重大な悪が富の生産、分配、消費の組織全体をかく乱をひどくし、その反動として社会主義、物質主義が階級闘争を拡大しつつ広く浸透していった。レオ十三世は種々の回勅において解決策を示し、とくに真のキリスト教的民主主義を強調された。このためにもまた、聖職者の中に新たな分裂が起きたのであった。充分な先見の明もなく企業に先走る人と聖座の指針に真っ向から反対する人とが現れた。

政治の面では、政治に関与するのを不適当だという考えを持つ人と、のちにピオ十世が言われたように、人びとと祖国の最高善を保護するためには、それが必要だと確信する人の、ふたとおりがあった。この点においても分裂、いがみ合い、見解の著しい相違が生じた。

思想の交流の新手段が、すでに顔をのぞかせ始めていた。印刷は、しだいに力をつけた組織によって強化され、映画は最初こそ不信の目をもって見られていたが、やがてますます広大な規模を獲得していった。学校は不信仰者とカトリック信者が人びととの魂の争奪戦を繰り広げる舞台と化した。ラジオとテレビも、ほとんど生まれながら、おとなの姿で世に現れようとしていた。

そこで、聖座から矢つぎばやに教令が出され、カトリック信者に新しい使命の水準まで自ら高めるようにと呼びかけていた。一方には数多くの無関心で、浅はかな人が目だっていたが、他方には教皇の指導のもとに働く、思慮あるカトリック信者と聖職者もいたのである。

これらの事柄や敬虔は、聖体のみ前での黙想を経て実っていき、いつも、ただ、そして、すべてにおいてローマ精紳という確信を生むにいたった。すべては、彼(アルベリオーネ神父)にとって学校となり、方向を見定めるのに役立った。ローマ精紳の他に救いはない。これを立証するのには、教皇こそがイエス・キリストによって、すべての時代の人々のために、ともされた大燈台の燈火であるという事実以外の証明を要さない。」

社会主義者、共産主義者および自由思想家たちが、自分らの思想や運動方針や制作などをマス・メディアを用いて宣伝し、さらに商社もマス・メディアを通じて商品の宣伝を大々的に行う。これに対して聖座は警告を発し、代わりに真のキリスト教的民主主義を広めて、おだやかな話し合い、お互いの尊敬、ゆずり合い、協力を進めるようにと信者を指導した。

アルベリオーネ神父は、教皇の勧めるローマ精紳をわがものにし、真理と良俗をより多くの人に伝えるには、マス・メディアを用いるに越したことはないと考え、早速、その実践に取り掛かったのである。

第二バチカン公会議では、「広報機関に関する教令」を出し、マス・メディアの宣教活動における重要性を確認し、ついでマス・メディア使用に関する指針として「コムニオ・エト・プログレシオ」を出した。アルベリオーネ神父は、これより四○年前に、マス・メディアの重要性を洞察し、公会議を先取りしてマス・メディアを布教活動に活用したのである。アルベリオーネ神父は、このマス・コミ使徒職を永続発展させるために、修道会創立を思い立った。このいきさつはアルベリオーネ神父が自分の上司であるアルバ教区長フランシスコ・レ司教あてに一九二一年十一月二十三日付けで出した公式文書の中に次のように書かれてある。

「一九○二年―一九○四年(アルベリオーネが神学一年生と二年生の間)に社会の中にも、大勢の作家の考えの中にも、社会主義や現代主義の宣伝家の中にも大々的に最悪の教えが広がっている。それでこの誤謬の普及をくい止めようとして立ち上がる有徳な人物、聖座に忠実な人たち(社会宣教師)が本を出し、それを普及することによって誤謬の伝播に対抗したい。

一九○八年まで、たえず個人的に祈りもし、他の人にも祈りをさせた。一九○八年に、このよな修道会は、神のみ旨であることに確信がもてるようになり、さらにはっきりとわかるようになった。」

そしてパウロ会を創立しようという明確なアイディアは、花の聖母堂に巡礼した帰り道にひらめいたのであった。この理念はナルゾーレ教会の助任となった一九○八年から創立までの一九一四年の間に次第に具体化し、創立者の心の中にいっそう輪郭を整えてきた。創立者は、こう述べている。「最初は信徒の著作家,技術者、書籍小売商よりなる一つのカトリック組織を作り、それに指針、仕事、使徒的精紳を与えることを考えていた。一九○九年ごろ、決定的な一歩を踏み切った。一段と明るい光を受けた著作家,技術者、普及者たちは男女の修道者であるべきだと悟った。一方では人を最高の完徳、つまり福音的勧告の実践と使徒的生活の功徳にまで導き、他方では使徒職に一段の一致、継続、安定、超自然性を与えることだ」と。

一九一三年(大正二年)ついにマス・コミ使徒職を実現する時がきた。「ガゼッタ・ダバル」(Gazzetta d’Alba)というアルバの教区週間新聞が赤字を出し、廃刊のせとぎわに追い込まれていた。その時、アルバ教区の責任者レ司教はアルベリオーネ神父を見込んで、この新聞の建て直しを頼んだ。神父は、さっそく、その新聞の全責任を、借金さえもひきうけ、熱心にマス・コミ使徒職を開始した。

司教は事の成り行きを見とどけると、教区への奉仕の仕事から身を引きたい、というアルベリオーネ神父の請願を聞き入れて、こう言われた。

『君を自由にしてあげよう。こちらは他の策を講じることにしよう。着手した仕事に全力を尽くしたまえ』

彼(アルベリオーネ神父)は悲痛の涙を流した。教区にたいそう愛着していたからである。とはいえ、彼はすでに一年前から辞表を提出しており、指導司祭もそうすることが神のみ旨であると認めていたのであった。」

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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