光について証をする 待降節第三主日(ヨハネ1・6~8、19~28)

ちょうど今の時期は夜明けが遅く、日没が早くなり、光のありがたさを特に感じる時期です。冬至も間近で、寒さも増してきます。

1996年10月から1997年3月までの約半年間、アイルランドのメイヌースで生活してことがあります。夏の間は夜遅くまで明るかったのですが、それがだんだん夜明けは遅くなり、日没は早くなっていきます。冬至の頃は最悪で、夜明けは午前9時前、日没は午後3時半ごろ。夜が長いなあと痛切に感じました。しかもメキシコ暖流の影響で雪はそんなに降らなくても、北西の風がビュービュー吹き、アイルランドの西海岸辺りに行くと、吹き飛ばされそうな強い風。厚手のジャンパーに毛糸の帽子は必需品でした。そんな季節を体験すると、早く春が訪れないかなあと思ったものです。「光」のありがたさが身に染みて分かりました。

今日のみことばで、彼(ヨハネ)は「光ではなかった。しかし、光について証しするために来た」(ヨハネ1・8)と記されています。光はもちろんキリストで、洗礼者ヨハネは「光について証しするために来た」方です。光が目立つように、自分自身は一歩下がったような雰囲気です。

ヨハネ自身、さらに続けて語ります。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなた方の知らない方が、あなた方の中におられる。わたしの後から来られる方で、わたしはその方の履き物の紐を解く値打ちもない」(ヨハ1・26~27)と。自分自身を謙虚に示していきます。決して自分ではなく、キリストを引き立てようとするところに洗礼者ヨハネの素晴らしさがあります。

光であるイエスを、私たちはどのように引き立たせようとしているでしょうか。そんな謙虚な姿勢を洗礼者ヨハネから教えられます。

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