奉仕の精神 王であるキリスト(マタイ25・31~46)

今日は「王であるキリスト」の主日です。「王」という言葉は、部族や種族の長たる者を「王」と呼んだり、「君主」、ある特定の分野で頂点に立つ者を「王」と呼んだりします。

キリストが「王」である時、支配、権威、力のような意味合いよりも、私たちのために死に、復活された勝利の王を指しています。その生涯も人に対して支配的なものではありませんでした。貧しい誕生から始まり、罪深い人、貧しい人に手を差し延べ、福音を告げ知らせました。最後は全ての人々の救いのために、いばらの冠をかぶせられ、鞭打たれ、嘲笑され、十字架につけられました。でも死に打ち勝ち、復活することによって勝利の王キリストを示されます。こうした歩みだからこそ、どんなに小さな、弱い人々にも手を差し延べることができたのではないでしょうか。

王は右側の者に対して「あなたがたによく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのである」と。左側の者に対しては「これらの最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしなかったのである」と語ります。右側の人は自分が配慮したことを気にしていません。それに対して左側の人は自分がいろいろな人たちに世話してあげたことを主張しています。しかし、王の裁定は厳しいものでした。つまり、「相手のために何かをしてあげる」という姿勢ではなく、評価されなくても相手のために謙虚に奉仕していくことの重要さを教えます。

2011年3月11日に大震災が起こり、たくさんのボランティアが派遣されていきました。私の修道会からも合計7名、ボランティアに参加しました。これに先立ち、事務局の方から「ボランティアに参加する方々は強制されて来ることのないように」という内容の指示をいただきました。参加した7名も、自分の意志で、しかも奉仕の精神を肝に銘じて参加していました。

たとえ他人に評価されなくても、目立たなくても、奉仕し続ける素晴らしさを教えてくれます。

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