17. アルバ神学校で霊的指導――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

一九○八年十月に、アルベリオーネ神父は、母校であるアルバ神学校に呼び戻され、教授、霊的指導者、及び聴罪司祭に任命された。その時アルベリオーネ神父は、ナルツォルの主任司祭に相談した。「私は神学校で霊的指導の仕事をするよりは、教会で信者の世話ほしたほうがいいと思いますが?」すると主任司祭は答えた。「あなたには、より、すぐれた霊的賜物が与えられている。……今、向上への一歩をふみ出したのだ……」と。こうしてアルベリオーネ神父は、一九二○年まで一二年間、神学校での教授職と霊的指導を引き受けることになった。

当時のアルバ神学校校長は、二六年前に校長に就任したカノニコ・ヴィトレ・ダヌッソ。この老校長のもとに、有能な教授連がいた。若いアルベリオーネ神父は、自分自身に問いかけた。「一八○名もの若者の指導には、老練なほかの神父がむいているのではないか?」また神学校の教授たちの間でも、「霊的指導にはもっとふさわしい司祭が大勢いるのに、司教はよりによって新司祭を選んだのか? アルベリオーネ神父は若過ぎて体験が乏しく賢明な霊的指導ができないのではないか?」というような疑惑をはさむ者がいた。しかし、口数の少ない、厳格なフランシスコ・レ司教は一言、「それでも私は間違っていない」と言うだけであった。

アルベリオーネ神父は、前任者のよくやった仕事の成果を見て、これからも続けて完成し、少しでも、プラスになることをして行きたいと決心した。

まず、ご聖体への信心を高め、毎日の聖体拝領をすすめた。毎朝、学生たちに黙想指導をし、初週間の特別信心の習慣を続けた。また、司教の同意を得て月の静修、初金曜日の聖体拝領、日曜の第二ミサを導入した。五月の聖母月には聖グリニョン・ド・モンフォールの精紳に基づいた聖母への信心の黙想を神学生たちにさせていた。神学生たちは、アルベリオーネ神父の霊的指導を熱心に受けた。そのうちの一人、フランチェスコ・グロッソ神父は言う。「私がいつも感心していたことは、アルベリオーネ神父が、うやうやしくひざまずき、十字架のしるしをていねいにし、信心深く祈り、儀式をよくやり、とくにミサを潜心しながらやっていたことである。」

告解の時の勧めは短かったが、いつも心に残るものがあった。「おもな欠点に打ち勝て!」と。そしてアルベリオーネ神父は、漠然とではあったがパウロ家の創立を考え、大神学生たちに、自分の以降に従って祈りといけにえをささげてくれとお願いしていた。神学生たちはこれに応えて熱心に祈り、のちに第一次世界大戦の時には戦場で神父の意向に合わせて、自分自身をいけにえとして戦死したり、戦病死したりしたのである。生き残った八名の神学生は、生涯をアルベリオーネ神父の事業にささげることになる。

神学生にとって、アルベリオーネ神父の言葉は絶対であった。「シニョール・テオロゴ(神学の先生)が、こうおっしゃった」と言って、信じ、実行した。アルベリオーネ神父が庭におりてくると、神学生たちは遊びをやめて、「シニョール・テオロゴがいらっしゃる」と叫びながら、神父のもとに走り寄るのであった。ジョワンニ・マリアノ神父は、こう述べている。「アルベリオーネ神父が神学生の霊的指導をしはじめてから、まもなく、神学生みんなの信頼をかちえた」と。

サレジオ会の日本管区の創立者の一人アンゼロ・マリゼリア神父は、アルバの神学校でアルベリオーネ神父の霊的指導を五年間受けたが、当時のことを、こう回想している。

「私は一九一○年の秋に、アルバの神学校に入った。その時から一九一五年までアルベリオーネ神父は私の霊的指導者であり、私は、彼の魂の美しさをよりよく理解し、神が彼を通してなされたふしぎな歩みを見る機会に恵まれたのである。

私たちは、朝のはじめの休み時間に彼と出会ったものだ。そのくちびるにほほえみを浮かべ、顔は光りにてらされたように輝いていた。そのため、私たちは、神父が、その夜、何かの特別な啓示を受けたに違いないと、ささやき合ったのである。

私は、しばしば彼の事務所をおとずれた。いろいろの会話の中で、彼は幾度となく、良い出版による使徒職の計画について私に語って聞かせた。そして一度は、聖パウロ会と教会の教父たちの書いた文章の数節を私に読ませたこともある。それらの書きものから、出版が社会に、どれほどの重みを持っているかを教えてくれたのである。

彼は当時から、修道生活をしていた。ある日、私は彼に、その仕事のために、多くの資金をもっているかとたずねたことがある。すると彼は自分の机の引き出しを開け、いくつかの箱を私に見せた。それらの箱の上には、『カルメル信心会員』『小さなロザリオ会員』などといった、その所有者の名前がしるされてあった。そして、その箱を持ちあげて、『これが私の宝ですが、私のものではありません』と言った。もはや彼は当時から清貧を生きていたのだ。そして、のちになって、彼は、その子らに清貧をくりかえし教え、彼自身、神の摂理に絶対的な信頼を寄せていたのである。」

さらにジョワンニ・ボレロ神父は、こう回想する。「神学生全員がアルベリオーネ神父に告白した。神父は黙想によって、みんなをきりっとさせる術を心得ていた。」神学校から聖パウロ会に入会したジョワンニ・キャヴァリノ神父はこう言っている。

「告白場でアルベリオーネ神父は告白者に長い話をしなかった。一句、一節のすすめが、告白者の魂に閃光のように走るのであった。」

同級生のジョゼッペ・カロリノ神父は、こう述べる。「年一回の同窓会に、アルベリオーネ神父はいつも喜んで参加していたが、大事業を始めてゆっくりできなくなってからは、『聖母に、“天使祝詞”をとなえてください』返事をよこした。」

一九二三年(昭和七年)司祭叙階二十五周年に、同窓会ではルルド巡礼を企画していたが、アルベリオーネ神父は、発起人のカロリノ神父に、こう返事している。「アルバにて、一九二三年七月二十二日、親愛なる主任神父様、お許しください。同窓生にもおわびを言ってください。私は行くことができません。もう時間もいのちも私のものではない、とあきらめています。
さようなら、ご無事を、ここから祈っております。アルベリオーネ」

アルベリオーネ神父は、仕事に忙しく、父母の実家に、たまに帰ってくると、母親は、よく神父にこう言っていた。「おまえが帰ってくる度毎に、私のもとに二か月間とどまって欲しいと思う。けれども、司祭としての職務柄、一五分間だけしか余裕がなければ、私も一五分間だけ、おまえがいて欲しいが、それ以上は望みません」と。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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