熱意 復活第3主日(ルカ24・13~35)

年齢とともに熱意というものは低下するものでしょうか。必ずしもそうとは言えないようです。ほぼ6年前、東京で聖書講座を受け持っていた時、受講者の中には高齢者の方がいました。最高齢の方は88歳になるかと思います。ある時、失礼だとは思いながらも、好奇心のつもりでその方に「どうして講座に来られるのですか」と尋ねたことがあります。すると「若い時に子育てやいろいろな仕事に追われ、聖書をじっくり読む機会がなかったのです。高齢になってやっと時間がとれるようになったので、参加しています」と。その答えを聞いて、熱意というものは年齢に関係なく、その人の心の持ちようによって随分変わるものだなあと思いました。

今日の箇所は「エマオの旅人」の有名な箇所です。二人の弟子がやがてイエスに気づいていく場面です。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』」(ルカ24・32)と。イエスがエマオに向かって二人の弟子たちと一緒に歩いています。最初、彼らはそれがイエスだとは気づいていませんでした。後で振り返ってみて、イエスが共にいてくださったことに気づき、その時、心がとても燃えていたことに気づいていきます。私たちにはイエスと出会う機会が数多く与えられていますが、私たちはそのことにどれだけ気づいているでしょうか。

振り返ってみると、私たちには聖体祭儀や毎日の祈り、礼拝、聖書朗読、隣人を通してイエスとの出会いを体験できます。残念ながら、それに気づかない時が多いのかもしれません。

パウロ家族の創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父はとても興味深い言葉を語っています。「聖パウロが生きていたら、今もなお同じ一つの火から出る二つの炎に燃え続けることだろう。すなわち、神とそのキリストへの熱誠、すべての国の人々への熱誠、この二つの炎」(『共同体における人類の成長』参照)。私たちの熱意はどのようなものでしょうか。

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