私を支えた人々のことば 百村等神父

「どうして神父になりたいと思ったのですか」

今まで何十回こんな質問を受けたか分からない。冗談まじりに、いつもこうこたえてきた。

「おとなになったら、あのきれいな祭服を一度着てみたいと思ったから……だけど、ウェディングドレスとちがって、一度ではすまなくなっただけ」

わが家は教会近くにあって、ミサがある時は平日でも教会に行き、初聖体を受けてからは、ミサ答え(侍者)をするのが好きであった。朝の目覚めもよかった。めったに入れなかった内陣に入って、侍者服を着て、ミサ前後の準備や後片付けをするのをなんとなく誇らしく感じていた。

わけの分からないラテン語の祈りは、すぐ暗記できたし、明治生まれの神父様の指導はきびしかったけれど、楽しかった。ミサ中、また香部屋で、直接祭服に手をふれるたびに、これを着られたらいいなあ、と思ったのは事実である。田舎の教会でも、祭服は、金糸銀糸の縁どりがあり、りっぱだった──いざ司祭になったら地味な服に様変わりしていたが──。

もっとも、初めから司祭にあこがれたわけでもない。昭和十六年に国民学校に入学、その年の十二月八日、真珠湾奇襲で大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まってからは、みんなと同じく、いっぱしの軍国少年であった。「べた足じゃ陸軍はだめ」と言われて、「じゃあ潜水艦に乗ろう」と、図画の時間には潜水艦の絵ばかり描いていたことを覚えている。狭い家に育ったし、甲板掃除もなくて楽だろうと。

司祭のことを考えるようになったのには、多分に父の影響があると思う。父は長年、教会で先読み(先唱者)を務め、また壮年の教え方、結婚が決まった男の人の要理の復習を担当していた。教会で大切な役目を果たす、そんな父を眺めて育った。教会と修道院以外にはないだろう父の聖書を──禁じられていたが──こっそり読んでいた。小学生の頃から国語は得意で、二年上の兄の教科書を読んでいたし、文語の聖書も、十分ではないが理解できた。

昭和二十二年二月二十八日に受堅したが、要理の成績が一番だったので、家族みんなが喜んでくれた。そこで夕食のとき、みんなの前で(母はすでに亡くなっていた)父に「神父様になりたい」と言うと「そうなってくれたら父ちゃんは嬉しかね」と一言。教え方(現、お告げのマリア修道会のシスター)も喜んで励ましてくれた。

その頃から、「等は神父様になるそうだ」といううわさが広まり学校でもからかわれたりした。特別よい子であったわけではないので、何か事あるたびに、おとなはもちろん、ワルガキからさえ「神父様になるっちゅうもんが、こんなことしてよかとか?」と言われもした。小学校の先生のひとりは、「百村は嫁さんはいらんのか」「いいです」「よう分からんが、しっかりやれ」「ハイ」という調子だった。

家が貧しかったので神学校に入る費用のことで悩んでいたところ、パウロ山野さんが生月に来て、「からだ一つでよか」の一言で、パウロ会に入ることになった。修道院のことなどまったく知らない、小学六年も終わりのころだった。パウロ会がどんな修道会なのかさえ知らなかった。そのパウロ会が、わたしが生まれた昭和九年に日本に来たという。偶然のことで運命的なことは感じないが、み摂理だったかも、とも思う。

ふる里で新制中学一年を卒えて、三月末、平戸から、生まれて初めて見た汽車で、一昼夜かけて東京に着いた。

入会後初めての夏休み、家に着くなり「ただいま、帰って来たよ!」と大声で言うと、「アイタあ」と父が天を仰いだ。退会して帰ったと勘違いしたそうだ。修道院は一度入ったら夏休みなどで家には帰れないものと思っていたらしい。事情が分かると、「あしたから親戚のうちに物言い(あいさつ)に行かんば、いろいろ世話になっとるせんね」と言う。あいさつなんてどう言ったらよいのかと聞くと、「神父様になるもんの、自分で考え。それに、おまえの話はモゴモゴで、よう分からん。ちゃんと口を開けて、はっきりもの言わにゃ。そんな説教じゃ神父様は、つとまらんと」。てきびしかったが、今考えれば説教術の初の講義だったかもしれない。

あいさつ回りは、中学生の私にはひと苦労だった。おじおばの数が多かったから、ひと巡りするだけでも四、五日はかかった。気のきいたことも言えず、田舎のこととて、十分や二十分のあいさつでは済まなかった。いとまを告げるきっかけもつかめず、ズルズルと二、三時間! あげく「神父様が長っ尻するもんじゃなか」と一喝されるありさま。

どの家でどんなあいさつをしたかは、すぐ父に知れるから、手を抜くわけにはいかなかった。しかし訪問先の親戚たちは、「よう見舞いに来てくれた」と喜んでもてなし、異口同音に励まして、祈りを約束してくれたものだった。これが何よりの支えになったと思う。

ふり返ると、召命について、なんの悩みもなく生きてきたように思う。ただ一度をのぞいては……それはローマでの司祭叙階一年前のこと。慣れかスランプというのか、何もかも嫌になり、退会して帰国を考えたが、時の院長ラメーラ神父様が引きとめて言われた。「一年待ちなさい。考えてごらん。一年なんて一生涯のうちホンの一瞬だよ。勉強もだけど、それより祈りをしなさい。祈れば大丈夫」。

同僚より一年遅れて叙階。総長(J・アルベリオーネ神父)様の部屋にあいさつに行くと、いきなり「死ぬまで司祭でいる自信はありますか?」と、いきなり一言。「自信はありませんが、イエス様が私を助けてくださるという自信はあります」「よろしい、イエス様なしには誰も司祭ではありえない、これを忘れないように」。

これは正しく聖パウロの言葉である。「私は使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みのよって今日の私があるのです。」(一コリント十五の九─十)。

司祭叙階(1963年)

最も強烈なのは、あるおじの言葉だろう。バチカン公会議後、あちこちで司祭たちの還俗が聞かれた頃である。「等神父、おまえは大丈夫か」とおじの一人が聞いた。「おまえが神父をやめてみろ。おれがナ、ナタをもって日本中どこまでも追いかけて、ダダでは済まさんからナ。分かっとるか!」

これが怖くて司祭を続けているわけではない。頼もしいのはやはりイエス様の言葉である。 「わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑などを捨てた者は、今、この世では百倍の……を受ける」(マルコ十の二十九─三十)。現実に、私はすでに百倍以上のものを受けていると思う。だから「迫害もあるが、来るべき世では永遠のいのちを受ける」という約束も確信をもって期待しているのである。

●文=百村等神父(聖パウロ修道会)

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