聖書は神が書かれた書物?――キリスト教知恵袋

聖書は神が書かれた書物だと言われますが、これは信仰箇条のように信ずべき事柄なのでしょうか? と言うのも、旧約聖書には、イスラエル民族の思考パターン、思考論理、その感性で受け止められた神が書き留められていて、「神の真実」のすべてが書かれているわけではないと思うのです。

ご指摘のとおりです。旧約聖書は、イスラエル民族のプリズムを通して書かれています。ですから旧約聖書に書かれている神は、ヘブライ語を話し、しばしばイスラエル民族にえこひいきをし、イスラエルに敵対する民族の虐殺を平気で口にします。旧約聖書の神は、イスラエル民族が生きた気候や風土、社会制度や文化というプリズムを通して描かれているというご指摘は、そのとおりです。

実は、イスラエル民族に限らず、私たち人間はすべてそれぞれのプリズムを持っています。日本文化というプリズムもあれば、男あるいは女というプリズムもあります。21世紀の初頭に生きているというプリズムもあります。私たちは、これらのさまざまなプリズムを通して神を知り、神と出会い、神を信じることしかできません。旧約聖書に込められた神のメッセージは、イスラエルというプリズムを通して私たちに届けられています。神は、イスラエル民族を通して、ご自分を私たちに語ってくださいました。

イスラエルというプリズムがあるからといって、神様のほんとうの思いが、私たちに伝わらないとは考えません。また、私たちが聖書のプリズムとは異なるプリズムを持っているからといって、神様の救いのみ業を理解できないと考える必要もありません。

「神様は、プリズムが入ることをご承知の上で、この書物を通して私たちにメッセージをくださった。神様のメッセージは、プリズムがあっても、この書物を通して私たちにちゃんと伝わる」という信念が、「聖書は神が書かれた書物だ」という言葉の意味ではないでしょうか。

私たちはイスラエルのプリズムに注意しながら、また私たち自身が持っているプリズムに注意しながら、神様のメッセージを探します。この作業は、時としてたいへん面倒な作業です。神様のメッセージがどこにあるのか、私たちの間で意見が分かれる場合もあります。それでもいいのです。大切な事は、私たちが、私たちやこの世界に向けられた神様のメッセージを探し続けることです。

この作業の最終責任は教会にあります。私たちは教会の一員として、神様のメッセージに気付き、生き、証する使命を共有しています。

●回答者=鈴木信一神父

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