聖ルチアおとめ殉教者

伝承によれば、聖ルチアはディオクレツィアヌス帝による迫害の最中の303年12月13日にシチリア島のシラクサで殉教したとされています。そして、この日が彼女の典礼上の記念日となっています。

ルチアについて記す聖人伝は、古いもので彼女の死から100年後くらいまでさかのぼります。これらの記録によれば、ルチアはシラクサの高貴な家に生まれました。彼女は成長して婚約をしますが、病気の母親の治癒を願って、母親とともに同じシチリア島のカターニアにある聖アガタの墓へ巡礼します。2人は、12年もの間出血の止まらなかった女性がイエスの服の房に触れることでいやされたという福音を聞きます。そこで、ルチアは、信仰をもって聖人の墓に触れるよう母親に勧めます。すると、ルチアは幻の中で聖アガタが現れるのを目にします。そして、母親がいやされること、またルチア自身が殉教することを告げられるのです。

シラクサに戻ったルチアは、婚約を破棄し、全財産を売って貧しい人々に施します。しかし、ルチアの婚約者はこのことに憤り、ルチアがキリスト者であることを当局に知らせました。このため、ルチアは捕らえられて拷問を受けますが、どのような苦難にも屈することなく、ついに殉教の栄誉を勝ち取るのです。ルチアは、自分がシラクサの保護者となることを、殉教の前に預言したとされています。

ルチアの殉教については、殉教録によって描写が異なっています。ある記録によれば、ルチアは首を切られて殉教したとされています。しかし、別の記録によれば、剣に貫かれて殺されたとされています。いずれにしても、聖ルチアに対する信心は、彼女の死後すぐにシラクサで盛んになり、特にグレゴリオ1世教皇(604年没)の尽力によって、ラテン語圏の教会に急速に広まっていきました。

前述のとおり、ルチアは同じシチリア島の聖人であるアガタとしばしば結びつけられます。興味深いことに、ルチアの殉教地であるシラクサのほうが、聖アガタの殉教地であるカターニアより大きい町であったにもかかわらず、聖アガタのほうがルチアの聖性を保証する役割を担っています。2人の聖女はともにローマ・ミサ奉献文(第一奉献文)に入れられ、記念されています。

さて、今回はマタイ福音書25・1-13を読み深めていきましょう。イエスが天の国について語られた「10人のおとめたち」のたとえです。この10人は花婿を迎える役割を与えられますが、そのうちの5人は愚かで、あとの5人は賢かったと述べられています。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたが、予備の油を持ってはいませんでした。一方、賢いおとめたちは、ともし火だけでなく、予備の油も持っていました。ところが、花婿の到着が大幅に遅れます。すると、時間がたっていたため、予備の油を持たない愚かなおとめたちのともし火は消えそうになります。そこで、彼女たちは、賢いおとめたちに油を分けてくれるよう懇願します。しかし、賢いおとめたちも分けてあげるほどには油を持っていなかったため、愚かなおとめたちはやむをえず店に油を買いに行きます。彼女たちが戻ってくると、すでに花婿は賢いおとめたちとともに婚宴の席に入り、戸が閉められていました。愚かなおとめたちは、戸を開けてくれるように願いますが、家の主人は「わたしはお前たちを知らない」と答えます。イエスは、このたとえを次のような言葉で結んでおられます。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。

この結びの言葉からも分かるように、教えの主眼は、「目を覚ましているように」ということです。しかし、「目を覚ましている」とは、眠らずにいるということではありません。実際に、賢いおとめたちも愚かなおとめたちも、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(25・5)のです。「目を覚ましている」とは、ともし火だけでなく、予備の油も持っていた賢いおとめたちのように、「用意ができている」(25・10)ことを意味しています。

ここで注意しておきたいのは、愚かなおとめたちが特段の過ちを犯したわけではないということです。むしろ、このおとめたちは通常の準備をしていたのです。もし、花婿が時間どおりに到着していれば、予備の油は必要なく、愚かなおとめたちも花婿とともに婚宴の席に着くことができたことでしょう。ところが、花婿の到着が大幅に遅れるという予想外の出来事が起きたために、愚かなおとめたちはその役割を果たすことができなくなってしまうのです。

愚かなおとめたちにしてみれば、「まさか花婿の到着がこれほど遅れるとは……」、「油が足りなくなるようなことが起きるとは……」という思いだったでしょう。一方で、賢いおとめたちは、「ともし火だけで十分だ」と考えるのではなく、花婿の到着が遅れることを考えて、「予備の油も準備しておこう」と考えたのでしょう。この教えが言いたいのは、「予備の油を持っておくこと」が大切だということではありません。たとえ予備の油を持っていても、「予備の油さえ持っておけばだいじょうぶだ」と考えてしまうとすれば、やはり愚かなおとめたちの考えと同じになってしまうからです。逆説的に思われるかもしれませんが、大切なのは、具体的に何かを持ち合わせておくということでなく、今の自分の状態が不十分であることを自覚するということなのでしょう。そうすれば、常に今以上の準備ができるように努めるはずでしょうから。しかし、わたしたちはどんなに努力をしても、これで十分と言えるような準備を自分の力だけで整えることはできません。つまり、「目を覚ましている」、「準備をしている」とは、結局のところ、自分の力に頼るのではなく、主である神の助けを願い続けるということなのです。

迫害や殉教は、それを想定して準備しておくことができるようなものではありません。常に、わたしたちの予測を超える苦難をもたらすものだからです。わたしたち自身の力に頼ろうとするとき、わたしたちは苦難に負けてしまいます。しかし、神の力に頼るとき、わたしたちは苦難に打ち勝つことができます。聖ルチアも、そのようにして殉教の「準備」をしたのでしょう。わたしたちも常に「目を覚ましている」ことができるよう、聖ルチアの取り次ぎを願いたいと思います。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

最近の記事

  1. ベトナムで「アボガド」を食べる時、わさびと醤油を使うと、とてもおいしくいただけます。日本製の「わさび…
  2. ●コルポラーレ(聖体布)ミサの時に広げて、この上にカリス、パテナなどを置いて使用する白い亜麻布で…
  3. 日本カトリック典礼委員会は、カトリック教会の典礼における聖書朗読に限って、『聖書 新共同訳』で使用さ…
  4. 復活節第4主日は、「世界召命祈願日」と教会で定められています。司祭は、ミサの集会祈願で「良い羊飼いで…
  5. 今年も「世界広報の日」を記念したパウロ家族使徒職責任者会(PAP)主催の講演会を開催致します。…

ピックアップ記事

  1. ローマ教皇フランシスコは25日、カトリック東京大司教区のペトロ岡田武夫大司教(76)の引退を受理し、…
  2. 【お見逃しなく!いつくしみのイエスに出会える絶好のチャンス☆】帰省やイベントなど、なにかと人に会う…
  3. 2017年7月27日から8月1日まで、ある修道会の年の黙想の指導を頼まれて、ベネディクト会(女子)の…
  4. 私たちは、日常の生活に於いて「右に行くか、左に行くか」、「楽な方を選ぶのか、苦しい方を選ぶのか」「善…
  5. 公式Twitterアカウントを開設しました。【Twitterアカウント】@sspinfo…
PAGE TOP
Translate »