永遠の命に入るという種 王であるキリスト(マタイ25・33〜46)

「言霊」という言葉があります。私たちが発する言葉や行動は、その人の内面が外に出るのではないでしょうか。例えば、私たちは同じ言葉掛けをされても、暖かく感じる場合と、そうでない場合があります。また、人の何気ない仕草に感謝を感じるということもあるのではないでしょうか。

きょうのみことばは、『最後の審判』の場面です。イエス様は、エルサレムの神殿の境内で、人々に天の国に入るためには、どのような行いをすればいいのか、どのような心構えでいなければならないのか、ということを話されていました。そして最後の話として、おん父との永遠の宴に入るのか、それとも悪魔とその使いのための永遠の火に入るのかという最終的な判決をされる場面です。

今まで、イエス様は話の始めに「天の国は○○と喩えられる」という言葉を使いながらファリサイ派の人々や律法学者たち、また、イエス様の周りに集まった人々に話なされていました。しかし、この箇所でイエス様は「人の子が栄光につつまれ、すべてのみ使いを従えてくるとき、人の子は栄光の座に着く」と、ご自分が【王座】に着かれ、人々をどのように振り分けるのかと言われます。そこでは、もう私たち自身をごまかすことができない場所と言ってもいいでしょう。

イエス様は、「すべての民族がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、人の子は彼らを二つに分け、羊を右に、山羊を左に置く。」と言われます。イエス様は、「すべての民族が」と言われていますから、イスラエルの人々だけというわけではありません。マタイ福音書の中に、「すべての民族に対する証として、天の国のこの福音が全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ24・12)とか、「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。」(マタイ28・19)とあるように、イエス様はすべての民族、人々の中に福音が宣べ伝えられた後、私たちがどのような生活をしたかということで、ご自分の前に集められるということを言われているのではないでしょうか。

羊飼いたちは、羊と山羊を昼間は一緒に放牧していたようですが、夜になると分けていたようです。ですから、イエス様の話を聞いた人たちは、日常で見慣れた風景ですから、すぐに理解したのではないでしょうか。まず、王は右側の人たちに「わたしの父に祝福された者たち、さあ、世の初めらあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい。あなた方は、わたしが飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、……牢獄にいた時に訪ねてくれたからである」と言われます。これを聞いた右側の人たちは、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えておられるのを見て食べさせ、……牢獄におられるのを見て、あなたをお訪ねましたか。」と答えます。彼らにとって王が言われたことは、まったく身に覚えがないことだったようですし、自分たちが「正しい人たち」という自覚もなかったものですから、王の言葉を理解できなかったのではないでしょうか。

王は、彼らの質問を聞かれた後に「あなた方によく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さい者の1人にしたことは、わたしにしたことである」と答えられます。彼らは、この言葉を聞いて「はっと」したのではないでしょうか。彼らにとって、王が言われたことは、別に意識していなかったことで、特別なことではなかったのです。このことは、人に親切にしたり、困っている人に手を差し伸べたりと、私たちの生活の中にも当てはまることでしょうし、私たちはこのような行いを、「この人を助けてあげなければ」と意識して行ってはいなのではないでしょうか。

次に王は、左側の人たちに「呪われた者たち、わたしから離れ去り、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火に入れ。」と言われます。彼らは、自分たちがなぜ、左側に分けられたのか不服だったようで、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、……牢獄におられたりしたのを見ても、お世話をしませんでしたか」と答えます。彼らは、自分があれほど世話をしてあげたのに、なぜ、自分たちが左側に分けられたのか、と思ったのでしょう。彼らにとって、これらの善行は、義務であり、【愛】から来るものではなかったのです。同じ善行でも意識しないで行うことと、周りの人の目を気にしながら「やらなければ」という行いでは、おん父の前ではまったく違うものとなったのです。

さて、王は正しい人に「さあ、世の初めからあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われています。この言葉は、私たち一人ひとりに対して言われているのではないでしょうか。おん父は、私たちを愛しておられ、「タラントンを使った人」のように一緒に永遠の喜びをともにしたいと望まれていました。しかし、それを拒み、ご自分から離れて行った人、また、「タラントンを使わなかった人」のような人には、永遠の刑罰に入る方に分けられたのです。

私たちは、「いま、この時」をどのように歩んでいるでしょうか。典礼では、新しい年を迎えようとしていますし、今年も残すところあと僅かになっています。私たちは、生活を振り返ってみておん父に祝福され、永遠の命に入るような歩みをすることができたらいいですね。

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