18. 摂理の助け――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち

経済的に見て、私たちの状態は実に悲惨なものだった。全くお金がなく、月額三十円(イタリアの七十リラに相当、現在の価値にすると七万リラにはなるであろう)の家賃契約を結んでいた。語学の教師にも月三十円で約束していた。私たちにとって月末に六十円を支払うということは、夜も眠れないほどの大問題であった。その他、パンやその他の私たちの口に合う食物を、近所の食料品店から「つけ」で買っていた。私たちは日本での数カ月の間、毎日毎日ずっと米と魚という食事にうんざりしていたからである。

こうして月末には約九十円の支払いがあり、これについて何の解決策も持ち合わせていなかった。そこでマルチェリーノ神父は、私に勇気を出してイタリア大使館に行ってみるように頼んだ。私はそれまで家から一度も外出したことがなかったが、この計画に驚きはしなかった。イタリア大使館は家から十キロほど離れていたが、地図で探し出すのはそれほど難しくはなかった。

大使館訪問を計画していた前日の夕方、玄関の扉が開いて、明瞭なイタリア語で、「ブオナセーラ・チェ・クァルクーノ?(こんばんは、どなたかいらっしゃいますか?)」という声が聞こえた。私たちは息が止まるほど驚いた。その人はイタリア大使館付き武官のスカリーゼ大佐であった。彼は東京での私たちの孤独な状態を知って、わざわざ訪ねて来てくれたのである。私たちの経済的な困難を最初に助けてくれたのは、彼であった。その晩、マルチェリーノ神父はうれしさのあまり、畳の上でアクロバットを繰り返していた……。

「摂理の奇跡」とは、どういう時に言うのだろう。私たちはそれを目の当たりにしたのである。マルチェリーノ神父は日頃、よくこう言っていた、「私たちにとっては、このように貧しい方がよいのだ。なぜなら、それは私たちが信仰に生きるための助けとなるから。嫌でも神に信頼せざるを得なくなるから」と。

スカリーゼ大佐とアウリッチ・駐日イタリア大使の援助(それはまさに奇跡的であった)の後、マルチェリーノ神父は次のように述べた。「さあ、これでひと息つける。私たちは余計な無駄遣いはしなかった。たとえ一銭も持たなかったとしてもね。(そして声をひそめて、こう付け加えた)でも今、何をしよう? そうだ! 自転車を二台買おう!」。

ロレンツォ神父は、それはもう大喜びだった。自転車は一台五円したが、この二台の自転車はそれから数年の問、私たちの仕事と使徒職のため、とても重要な働きをしてくれた。

このつつましい乗り物は、木曜日の午後の息抜きや、気晴らしのため散策するのに大変役立った。日本語の勉強については、多くの漢字を覚えたり、書き方を学ぶために毎日七~八時間、私たちは難しい学習を続けた。しかしそれは、絶対に必要な犠牲であった。さもなければ、私たちは自分の使命を始めることを断念しなければならなかっただろう。

初めの頃は人々と交流するための基本的な「道具」として、どうしてもこの日本語という言葉に頼らざるを得なかったのである。

自転車はさまざまなことに役立った。例えばマルチェリーノ神父は、私に月に一度、在京のすべての外国大使館を訪問するようにと説得した。各国の大使館の職員たちに私たちが日本に来た目的を説明し、今私たちが置かれている経済的な困窮を知ってもらうためである。神の恵みによって、すべては順調に進んだ。ほとんどの外国大使と大使館の職員は、ソビエト大使館も含めて、とても前向きな姿勢で毎月の寄付を約束してくれた。それをロレンツォ神父が毎月、直接集金に回るのである。こうして月末には、前に述べた必要な経費九十円の支払いができるようになっただけでなく、将来の使徒職活動に備えて、幾らかを貯金に回すこともできるようになった。

間もなくマルチェリーノ神父に、イタリア大使館で仕事をする機会が提供された。それは大使館員の子どもたちに祖国イタリアの言葉を教えることであった。そして私はと言えば、あのピアチェンツァ神父の心遣いによって、報酬を得ることができた。それは毎日二円の約束で、三河島までミサをささげに行くことであった。それで早朝、周囲がまだ暗いうちに起き出して、自転車で三河島まで行かなければならなかった。道路を電車やバスよりも自転車で早く走り、朝の八時には家に戻るようにしていた。なぜなら、午前八時には日本語の授業があったからである。一年半の語学勉強の後、私たちの日本語は通じるようになり、信徒の告白を聞き、日曜日の説教をすることも認められるようになった(説教はローマ字で準備し、時々は習い覚えた幾つかの漢字も使った。これらは時とともに、さらに改善されるべきものであった)。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』(2020年)より

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