「カトリック入門」 第10回 受肉について【動画で学ぶ】

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第10回:受肉

神の御子は、聖霊によって処女マリアの胎内で人間性を受け、人間となられました。このことは、神の御子の「受肉の神秘」と言われます。イエス・キリストには神性と人間性の二つの本性がありますが、ペルソナはただ一つ、すなわち神の御子のペルソナだけです。イエス・キリストが真の神、真の人である事実は常にキリスト教の核心であり、神学の中心である。神と人との位格的結合と表現されたりする。

1)聖書からのことば
*ルカ1・26~38 聖霊の働き
*ヨハネ1・1「初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。」
*ヨハネ1・14「み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった。」
*ヨハネ1・18「神を見た者は、いまだかつてひとりもいない。父のふところにいる独り子である神、この方が、神を啓示されたのである。」
*コロ1・15~16
*フィリ2・6~11

<同質>
ヨハネ10・30「私と父とは一つ」
フィリ2・6~11
<仲介者>
一テモ2・5
ヘブ8・6、9・15、12・24、テト2・14

2)異端
*キリストは誰か?から出発し、アレキサンドリア(エジプト)ではキリストの神性が中心になり、アンティオキアではキリストの人性が中心になって、異端が生じるようになった。
*アレキサンドリアのアポリナリオス(仮現説)
 彼は一テサ5・23(「霊も魂も体」)を持ち出し、人が霊、魂、体からなるということに着目した。彼において「霊」である「プネウマ」は罪を犯すものであると考えた。このことをキリストに当てはめた場合、キリストには罪はありえないということから、プネウマの代わりのものとして、ストア派からのロゴスを持ち出した。こうしてキリストがロゴス、プシュケー、ソーマからなると彼は考えた。つまりロゴスがキリストの肉体において、神の生命にやどると考えた。この立場だと、キリストの人性が否定されることになり、キリストが人間ではなくなってしまう。
*アンティオキアのネストリウス(養子説)
 アンティオキアにおいて、位格的結合から出てくる「テオトコス(神の母)」の問題が生じた。問題を起こしたのは、アンティオキアのネストリウス。彼はキリストにおいて神と人との二つの本性の結合は、位格的結合ではなく、木片の二つの結合のようなものと考えた。そして人間から生まれるのは人間という母性とからませて、マリアが神の母であるという「テオトコス」を否定した。この他に、アレキサンドリアのチリロスとの争いの中で、位格的結合の捉え方が違っていた。チリロスは、これをキリストの本性としてとらえたが、ネストリウスは本性のための位格としてとらえ、理解のずれが生じた。こうしてネストリウスはキリストを神性と人性との区別し、その一致は機械的なものだととらえた。こうした考えに対して、教会は(ネストリウスが否定したテオトコスに対して)「キリストはマリアから生まれ、み言葉によって受肉したとし、テオトコスを強調した。また一人の受肉した者の中における神と人との結合としてとらえた。これは機械的な結合ではなく、実際的な結合である。この教会の立場は、エフェソ公会議(431年)の中で打ち出された。
  ↓
「神性と人性が唯一の位格と神秘的ですばらしい方法で結合し、子であるイエス・キリストになった」(DS250~266)

*アレキサンドリアのエウティケオス(単性説)
 エウティケオスは、キリストにおける神と人との緊密な結合を強調しすぎ、ついには一つの本性だけに傾いてしまい、神性のほうにそれが向かっていった。そして、キリストにおいて人性が神性にの飲みつくされ、人の体とキリストの体とは異なり、キリストの体は神性だと主張した。

これに対して教会は、キリストが神性と人性を有する二つの本性であり、一つのペルソナを持つとしてエウティケオスの意見を排斥した。

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