17. 貸家――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち

一九三四年のクリスマスと一九三五年の元旦は、三河島で熱心な信徒のみなさんと過ごした、すばらしくも感動的な二日間であった。しかし「主の公現」が過ぎてから、私たちに思わぬ災難が降りかかった。それは、私よりも勇気と決断力のあるマルチェリーノ神父に対しても深い傷痕を残した。

ローマからは、アルベリオーネ神父の私たち二人に宛てた手紙以外は、何の連絡もなかった。私たちはその手紙をピアチェンツァ神父に見せた。手紙には、「あなたたちが無事、東京に着いたことを神に感謝しています。健康に留意しなさい。お祈りし、ピアチェンツア神父様に感謝しなさい。主はあなたたちと共におられます。安心しなさい。あなたたちがしていることは聖師イエスの思し召しです。使徒の女王聖母マリアがあなたたちを助けてくださいます。聖座に必要な手続きをしました。信心に励みなさい。主があなたたちに正しい道を示してくださるでしょう」と書かれていた。

そんなある日のこと、ピアチェンツァ神父はシャンボン大司教から電話で短くこう言われた。「あの二人のイタリア人司祭はサレジオ修道会から出て、どこか他の、横浜に近い場所で自活しなければならない」と。

ピアチェンツァ神父は私たちを呼んで、心を落ち着けるようにと言い、自分としては引き続き喜んで二人を寄宿させたいが、大司教はそれに賛成していないことを話された。そして「自分は私たちに対する配慮を失っていないこと、私たちのために家を探す手伝いもしよう」と約束された。マルチェリーノ神父も私も、何の異論もなかった。マルチェリーノ神父は私に言った、「ロレンツォ神父、貸家を探しに行こう。そうする方が私たちのためになる……。あとできっと、日本での聖パウロ修道会のこうした貧しい設立を感謝することだろう。さあ、行こう!プリモ・マエストロがお祈りしてくださっている。私たちのあの”おヒゲの神父”、ピアチェンツァ神父も私たちを決して見捨てはしないだろう」。

日本では、貸家は塀にその家の住所と所有者の住所が書いてあることで、他の一般住宅と見分けられる。私たちが選んだ借家は、フランス人宣教師の教会からそれほど遠くなかった。私たちに同行してくれた人(ピアチェンツァ神父に命じられた日本人の神学生)は塀に書かれた住所を見て、家主が少し離れた所に住んでいることを知り、自分が家主を呼びに行く間、ここで待っているようにと言った。彼は数分後に、家主を連れて戻ってきた。型どおり頭を下げて挨拶してから、四人とも家の中に入った。

ここで、日本家屋の独特な構造について述べるのは興味あることと思う。それはまず清潔で優雅、居心地の良さがある。床の間や家具、寝具、部屋を飾る家財道具はとても大切に扱われている。家の中には畳が敷かれていて、土足でその上を歩くことはできない。

玄関を入るとすぐ、コンクリート床の玄関があり、そこだけが靴のまま入ることができる。そこから中に入る前に靴を脱ぎ、備え付けの靴箱に入れる。地面から十五~二十センチ上には磨かれた木製の踏み台があり、新しいスリッパが並べてある。スリッパは、たいへん清潔で輝きを放っている板廊下を歩くのに使われる。スリッパは畳の部屋では使われない。

二番目の扉を開ける。それは小さく仕切られた木の枠に純白の丈夫な紙を張った扉で、次の廊下に出る。廊下はこざっぱりしていて、一見、家具が何もない部屋に通じた。調度品類の一切は、備え付けの戸棚に収納されていたのである。中央には低い小テーブルと花を活けた花瓶があり、その周りには椅子の代わりをする座布団が置かれていた。台所は一・五メートルか二メートルほどの小部屋になっていて、典型的な日本家屋で、つつましいが清潔で、きちんと整頓されている。そこは食事を作る人の休息の場に使われていた。食料について日本では、他の国の人々(私たちもその中に含まれる)と同様に、特に難しい問題はない。

日本人の主食は良質の米で、ごく簡単に調理され(お湯でゆでるか煮る)、焼き魚、生かあるいはゆでた野菜、これらが日本人の料理法で、調理用として小さな「かまど」が何にでも使われている。それから五メートル×六メートルほどの広さの大きな部屋に入る。そこは私たち二人の宣教師が約二年間、生活することになった部屋で、一つの部屋をふすまによって二部屋に分けることができた。ここで私たちは長時間勉強し、休息し、いろいろな問題について話し合い、計画を立て、そして祈るために過ごした。

ここにも中央に花を飾った小さなテーブルがあり、その周りに多彩な色の座布団が置かれていた。寝具、勉強机、食卓は壁に沿って作られた戸棚に納められていた。戸外を見るため、「東」に目を向ける。すると私たちの目にはすばらしい庭が映る。庭は家の広さほどもあり、植木、草花、庭石、そして泉水がある。ロレンツォ神父は感動のあまり立ち尽くしていたが、マルチェリーノ神父は花を摘んで、それを上着のポケットに挿した。

賃貸契約を結ばなければならないが、私たちの喜びはもう態度に現れてしまっていて、さぞ家主に高値をつけてもよいと思わせたことだろうと思う。座敷に戻って座布団に座ると、まだ借りるかどうかを話し始めないうちに、着物を着たかわいらしい少女がお茶を運んできた。お茶を飲んでから、私たちは辞書を手にして家主と交渉を始めた。マルチェリーノ神父は細かなことまですべてを明瞭にしたかったので、家主の話をラテン語で通訳しようと苦心惨澹している日本人神学生の一言一句を、できるかぎり完全に、正確に理解しようとした。この交渉には三時間もかかったが、とうとう双方が合意に達した。家賃は月三十円、当時のイタリアのレートに換算すると約七十リラであり、両者ともに満足した。

こうして一九三五年一月の上旬、私たちはその小さな家を喜びのうちに「わが家」とすることができたのである。

私たちは三河島の町とピアチェンツァ神父の修道院から、残念な思いだけでなく、本当に悲しい心を抱いて離れた。この悲しみを顔に表さないように抑えることはできたとしても、恩人と別れなければならない心の痛みはとても大きかった。しかし、こうした感情を抱きつつも、私たちの心は新たな「道」へと向かっていた。それは私たちを待ち受けているであろう多くの未知の世界に出発すること、「無」から始めなければならないということは、困難に直面する際の刺激となり、それを克服するための勇気ともなった。

財産と言えば数百リラと少しの旅行荷物、そして『聖務日課』(聖職者用の祈り本)であり、私たちが本当に「自分たちのもの」と呼べるのは、ただこれだけだった。

これまで温かく受け入れてくれ、心からの愛をもって滞在させてくれたこの三河島を離れる前に、私たちは修道院の小聖堂で最後の祈りをし、幾らか勇気を得た。ピアチェンツァ神父に挨拶に行くと、神父はタクシーを呼んでくれた。そして、運転手に私たちの行き先を「大森区まで」と告げた。こうして一九三五年一月、日本における私たちの本当の冒険がいよいよ始まったのである。(使徒職活動の)公式の許可が下りたのはその後のことである。

その小さな借家で私たちは約二年間生活し、たゆまぬ勉学と深い安らぎのうちに過ごした。私の方はいたって健康であったが、マルチェリーノ神父は胃潰瘍が再発し、数カ月の間、家でミサをささげなければならなかった。私は毎朝、約一キロ離れた近くのカトリック教会に行っていた。マルチェリーノ神父が健康を取り戻した時、いちばん喜んだのは他ならぬ彼自身であった。彼は子猫とじゃれ合い、子どものようにはしゃいで、勉強部屋の畳の上で軽業までして見せた。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』(2020年)より

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