幸せのプレゼントという種 諸聖人(マタイ5・1〜12a)

「幸」という字は、「辛」という字に「一」を加えると「幸」となります。今は、「辛い」けれどおん父からのお恵みが「一つ」が加わると「幸せ」になるのかもしれませんね。きょうの典礼は「諸聖人の祭日」で、天の国に入られている聖人をお祝いいたします。

きょうのみことばは、『山上の説教』と言われている場面でマタイ福音書では、5章から7章29節まで続く教えが書かれてある部分で、最初の「真福八端」と言われている箇所です。イエス様は、ガリラヤ全土で、天の国の福音を宣べ伝えたり、病人を癒したりした人たちがご自分のもとに従って来るのをご覧になられ、山に登られます。聖書の中で【山】は、聖なる所、神がおられる所とされています。イエス様は、人々がご自分の周りに集まって来たのをご覧になり、「腰を下ろされ」「口を開かれ」ます。この2つの行為は、ラビが人々に大切なことを話される時に行う動作です。弟子たちは、イエス様の周りに集まり、それを囲むように人々が集まってイエス様が話し始めるのを待ちます。

イエス様は、「自分の貧しさを知る人は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」と話されます。イエス様に従ってきた人たちは、弟子たちを含めてあまり裕福な人たちはいませんでしたし、病気で苦しんでいた人、ローマ帝国やユダヤ人の王からの圧政に苦しむ人など貧しい人たちがほとんどでした。彼らは、このイエス様の「自分の貧しさを知る人は」という言葉を聞いてどのように感じたことでしょう。しかし、イエス様は、「物質的」、「この世的」での【貧しさ】のことを指して言われているのではなく「霊において貧しい人」という意味として伝えておられます。このことは、「自分の力ではどうすることもできない」ということを受け入れることで「神様の恵に信頼する」ことで本当の【幸せ】を得ることができるということを表しているようです。イエス様は、「自分の貧しさを知っている人は、すでにおん父とともにいる状態ですから、【天の国】にいるのですよ」と教えられているのではないでしょうか。

イエス様は、「悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。」と言われます。イエス様は、私たちが悲しんだり、苦しんだりしているのを放っておかれません、必ず慰めをくださいます。もちろん、その【慰め】は、おん父からの恵みですから、私たちが思い描いている【慰め】ではありません。

イエス様が話された教えの中では、「柔和な人」「憐み深い人」「心の清い人」「平和をもたらす人」という人と、「貧しさを知る人」「悲しむ人」「義に飢え渇く人」「義のために迫害を受ける人」という人が出てきます。前半の人たちは、おん父の恵に満たされ、「幸せ」になるだろうと思われますし、私たちの「目標」としたいものです。後半の人たちは、「喜んで」なりたいとは思えず、どちらかというと遠慮したい「目標」ではないでしょうか。しかし、前半の人というのは、初めから「柔和な人」「憐み深い人」「心の清い人」「平和をもたらす人」という人たちではなく、それぞれ人の辛さ、惨めさ、争い、憎しみを知った人たちではないでしょうか。そのような人たちは、おん父からの「柔和」「憐み」「心の清さ」「平和」が必要と思われたので自然と生活の中に表れて来るのではないでしょうか。

また、後半の「貧しさを知る人」「悲しむ人」「義に飢え渇く人」「義のために迫害を受ける人」という人たちは、自分を見つめること、自分の内側の状態を見て、「こんな私ですが、『主よ、助けてください』」と祈らないと生きてはいけない人たちと言ってもいいでしょう。おん父は、そんな彼らに対して放っておくことができませんので、必要なお恵みや慰めをくださいますので「幸せ」をいただくことができるのではないでしょうか。

イエス様が話された「幸せな人」というのは、私たちの力ではどうすることもできないということを知っている「人たち」です。このような人たちは、いつもおん父の声に耳を傾け、イエス様だったらどうなさるかなと考え、聖霊の助けを望んでいる人たちではないでしょうか。彼らは、イエス様が言われるような「わたしのために人々があなた方をののしり、迫害し、またありとあらゆる、いわれのない悪口をあなた方に浴びせる」というさまざまな苦しみを受けることでしょう。イエス様は、彼らに「喜び踊れ。天におけるあなた方の報いは大きいからである。」と約束されます。それは、天の国の栄光をいただいているからではないでしょうか。

イエス様の8つの教え最初の「貧しさを知る人」と、最後の「義のために迫害されている人」は、同じように「天の国はその人たちのものである」とあります。【諸聖人】である天の国にいる人たちは、イエス様が話された教えを行なっていた人たちと言っていいでしょう。きょうの教えは、イエス様が人々になさった姿ですし、最後は、民の長老たちから迫害を受け、十字架の刑で亡くなります。私たちは、きょうのみことばの一節一節を丁寧に味わい、祈り、深めながら「私の『今』に必要なこと」は何かなと振り返ることができたらいいですね。

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