神のものは神に返しなさいという種 年間第29主日(マタイ22・15〜21)

ある方が、「死ぬって、どんなことなのでしょうか」という質問をされていました。この話を聞いた時、私が高校生の時、母に話したことを思い出しました。母は晩年「最近は耳が遠くなり、目も良く見えなくなり、忘れっぽくなってきた」と私に話してくれました。そんな時、私は「きっと、それは天国にいるもう一人の自分にお返ししていくということではないの。耳が遠くなったらその耳を天国の自分の耳を、目が見えなくなってきたらその目を天国にいる自分に返していく。そして、最後に体と魂をお返しすると考えたら」と伝えたことがあります。このように、私たちは、一生をかけておん父から造られた「私の体」を生きているうちに少しずつお返しして行くと考えてみたらいいのかもしれませんね。

きょうのみことばは、「ローマに対して人頭税を納めるべきか、納めない方がいいのか」という問題についてファリサイ派の人々が自分たちの弟子たちを遣わしてイエス様に質問する場面です。ファリサイ派の人や民の長老たちは、イエス様にいろいろ質問したあげく、反対に自分たちのことを指摘されてしまいました。それで、いったん彼らは、神殿の外に出たのですが、彼らは協議して、自分たちの弟子といつもは仲違いをしているローマを支持するヘロデ党の人たちとをイエス様の言葉尻をとらえようとして遣わします。

彼らは、イエス様に「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、また相手によって態度を変えず、誰をもはばからない方であることを知っています。」と言い始めます。不思議なもので、彼らがイエス様に言った言葉は、すべてイエス様がこれまでなさってきたスタイルと言っていいでしょう。残念なことに彼らはそれを心から理解していませんでした。彼らは「あなたが真実な方で……【知っています】」と言っていますが、これは、頭だけの理解でした。もし、彼らが心からイエス様に言っていたのでしたら、次にする質問をしなかったでしょう。

彼らは「ところで、お伺いいたしますが、どうお考えでしょうか。ローマ皇帝に人頭税を納めることは、許されているのでしょうか、いないのでしょうか」と質問をします。もともと、この問題はユダヤ人たちの中で問題になっていたことのようです。彼らは、異邦人であり、自分たちを支配しているローマ皇帝に対して「人頭税」を納めたくなかったのですが、仕方なく納めていました。それでこの問題について彼らは、イエス様に質問したのでした。もし、イエス様が「ローマ皇帝に人頭税を納めるべきだ」と答えたとすると、ユダヤ人たちの反感を買いますし、「納めるべきではない」と答えられたらローマ皇帝に対して反抗したとしてイエス様を訴える口実ができるわけです。

彼らの執拗な質問を見ていきますと、「もっと別のところにエネルギーを費やせばいいのに」と思ってしまいます。彼らにとってイエス様は、まさに「目の上のこぶ」と言ってもいいのかもしれません。彼らは、人々がイエス様の教えや癒しによってイエス様の方に行くことに我慢できなかったのでしょう。彼らは、妬み、自分たちのプライドが許さず、また、イエス様から指摘されたことに対して反論できなかったことなど、何とかしてイエス様を失脚させよう、亡き者にしようと思っていたのでした。もしかしたら私たちの中にも自分と意見や性格が合わない人に対して、自分たちの意見をと通そうと画策したり、時には攻撃したりとする傾きがあるかもしれません。時には、何が大切で、なすべきことは何かということを識別する時間を持つことも大切なのかもしれませんね。

イエス様は、彼らに「偽善者たち、どうしてわたしを試みるのか。人頭税に納める銀貨を見せなさい」と言われます。彼らは、ローマ皇帝の肖像が彫られ、また「崇高なる皇帝ティベリウス、神聖なるアウグストゥスの子」という銘が刻まれたデナリオン銀貨を持ってきます。律法を重んじている彼らは、神殿の中に異邦人の神の肖像を持っていたのでした。このことは、モーセの「わたしのほかに神があってはならない」という十戒に反することだったのです。イエス様は、心の中では「ローマに人頭税を納めるべきではない」と思っている彼らが、日常生活ではデナリオン銀貨を使っているのにも拘らず、神殿の中にデナリオン銀貨を持ってきているという矛盾に対してでした。

イエス様は、人頭税を納める、納めないという問題に直接答えるのではなく「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。イエス様にとって、彼らの質問は、そんなに大切な問題ではなかったのです。それよりも大切なことは、彼らが先にイエス様に言った「いつも真実であり、真理に基づいて神の道を教え、また相手によって態度を変えず、誰をもはばからないようにしなさい」と伝えたかったのでしょう。イエス様は、彼らが信仰生活と日常生活が乖離(かいり)していることを指摘したのではないでしょうか。

私たちの体、性格、能力、友達、周りの環境など全ては、おん父から頂いたものです。私たちは、日常生活を通して人との触れ合いや声かけや、信仰生活、福音宣教を通して私たちの全てをおん父にお返しすることができたらいいですね。

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