12. 上海〜大海の洗礼――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち

香港を出港した「コンテ・ヴェルディ号」は上海に直行した。上海は二十日間にわたる航海の最終地である。錨を上げる前に、船会社は香港最後のショーを見せてくれた。船室の小窓を通して一群の中国人の少年たちが見えた。彼らは海中ですばやく体をくねらせ、まるで魚のように遊泳していた。誰かが橋からチップのお金を投げるのを待って、彼らは海に潜り、身をくねらせ、お金を受け止める。それは驚くべき技であった。たった一枚の硬貨も彼らの手や口から逃れるものはなかった。少年たちは体を揺すって水面に浮き上がり、腰に着けている袋にお金を納めると、またすぐ海に潜っていった。それは一時間以上も続いた。

船は中国大陸とフォルモザ(台湾のこと。当時は日本の支配下にあった)の間を通過した。台湾の北方に琉球(現在の沖縄諸島)の島々が浮かんでいた。日本の島々である。マルチェリーノ神父と私たち聖パウロ会修道会の宣教師は、台湾でも琉球(沖縄)でも日本語が使われているのを知って、もう宣教地に着いたような気持ちがした。アルベリオーネ神父から、「行って、東洋で一番遠く文化の進歩した国で、出版や映画などあなた方の使徒職を始めなさい」という明確な目的を与えられた新米の宣教師たちにとって、これ以上、宣教地における活動を思い描いて、精神と心を高揚させるものはなかった。

しかし、私たちは本当の大海の「洗礼」をまだ受けていなかった。事件はシナ海で起こった。そこは大陸の河川が太平洋に流れ込み、北からの烈風はそれほど激しくはないが、しかし、時に猛烈な勢いで吹きつけてくるのである。

激しい時化は、言葉に表現できないすさまじい暴風雨と共に船に襲いかかった。それは恐るべき威力で船に侵入し、沈没させまいとする船長や操舵手、船員たちの懸命な努力にもかかわらず、甲板から船底まで船を鞭打った。前後左右、思いのままに翻弄した。二、三十メートルもあろうかという山のような大波に直撃され、船は麦わらのように上下に揺れた。うねる波の下から浮き上がるときには、まるで潜水艦のように思われた。

椅子、テーブル、額縁、その他多くの家具が右に左に揺れ動き、船員が備品をひもやロープで壁に結びつけることもできなくなった。サロンやバール(酒場)に集まっていた乗客たちはみんなパニックになり、あちこち走り回ったあげく、ほうほうの体で各自の船室に逃げ込んだ。

嵐の襲来は、昼を過ぎた数時間後のことであった。わずか十分か二十分足らずのうちに、女性や子どもたちはみんな船酔いのためベッドに潜り込んでいた。勇気があって頑健な男たちですら、もはや立っていることもできなくなっていた。男たちは煙草を吸い、会話をしながら、暴風雨が過ぎるのをただじっと待つしかなかった。しかし嵐はますます猛り狂い、その猛威は翌朝の明け方まで続いた。船室の小窓だけでなく、高い船橋まで泡立つ波をかぶっていた。船首も船尾もすべて浸水していた。

一人の勇敢な船員が、階段の手すりを全力でつかんで歩こうとしていた。船室では多くの女性と子どもたちが、吐き気に襲われて泣き叫んでいた。マルチェリーノ神父と私は膝をついて歩いたり、階段や廊下の手すりにしがみつきながら、苦しんでいる人たちの助けに向かった。しかしこうした慎重さにもかかわらず、わが親愛なる「大海」からの厳しい試練と、それによる痛ましい失敗は避けることができなかった。すべての良い行為にはそれなりの冒険、危険が伴う。若き宣教師である私たちは、重大な危難に陥った「コンテ・ヴェルディ号」に乗り合わせた兄弟姉妹への愛のためにこの冒険、この危険に果敢に立ち向かったのである。

夜が明けてすべては穏やかになり、太陽が再び輝いた。しかし頑丈だった手すりは、凶暴な波の力によって引き抜かれ、海にのみ込まれてしまっていた。乗客が海に転落しないよう、手すりの代わりとして太く丈夫な綱が、船員たちの手ですでに張られていた。数頭の大きなイルカが船についてきた。彼らも昨夜の恐ろしい嵐の後の晴天を楽しんでいた。私たちはこうして上海へと進み、船はそこで修理された。

人の世の常ではあるが、危険を免れたことは喜びの源になる。ラジオは最大の音量で放送を流し始め、バールは再び人でいっぱいになり、船員は大声で陽気なカンツォーネを歌っていた。その日の午後から船内の大広間はいつもより混雑し、乗客たちは夜中過ぎまでダンスに浮かれ興じていた。ある宣教師が(それはずいぶん前のことだったが)、こうした乗客たちの変貌ぶりを評して、「みんなは昨日と昨夜は、神に自らの魂をすべて委ねて祈っていた。だが今、この船は常軌を逸した者たちの檻になってしまった!」と嘆いた。

「コンテ・ヴェルディ号」は大都市・上海の埠頭に接岸し、誰も彼も皆が下船した。船体はあの嵐でひどく傷んでいたので、修理してイタリアに帰ることになっていた。そのため今回は、荷物をすべて船から運び出さなければならなかった。私たちパウロ会員たちは、すぐにサレジオ会の院長ミケレ・スッポ神父と会った。すでに香港から電報で知らせていたのである。神父は私たちに優しく挨拶し、私たちの大きな荷物を一時保管所に預けてから、修道院に連れてきて心から歓待してくれた。私たちは十日間ほどサレジオ会にお世話になり、ここで日本行きのフランス船を待った。

そういえば一時保管所で、マルチェリーノ神父の荷物が中国人の運搬人から問題にされたことがあった。彼らが三、四人かかってもその大きな荷物を持ち上げることも、運ぶこともできずぼう然としていたのである。私は、前に述べたようにバイクの事故で右足がまだ腫れていたが、渾身の力を振り絞ってその大きな荷物を持ち上げた。すると中国人たちは口々に「オオッ!」という驚きの声を発し、何か私たちに分からない言葉で互いに言い合っていた。

神の恵みによって、私たちはとうとう極東の入り口に着いたのである。私たちの喜びはこの上もないものであり、特にマルチェリーノ神父に至ってはじっとしていられず、躍り上がって喜んでいた。この「使徒」の心は、ついに宣教地の入り口に到着したことで打ち震えていたのである。その後もずっとマルチェリーノ神父は、極東(日本だけでなく、韓国、満州<当時の>、台湾も含めて)すべてを、自分の「宣教の畑」だと考えていたのである。

翌日、私たちは兄弟会員のエマヌエレ・ファッシーノ神父とピオ・ベルティーノ神父の任務について話し合った。二人はアルベリオーネ神父の計画に従って、広大な中国大陸に聖パウロ修道会を設立するために、上海にとどまらなければならなかったのだ。

宣教団のリーダーであるマルチェリーノ神父はこの二人の当事者と、そしてスッポ神父に、彼らと行動を共にすることによって生じるさまざまな問題、特に金銭の不足による大きな課題についてみんなに諮った。

親切なスッポ神父は少しも驚かなかった。彼は今回の状況とよく似たサレジオ修道会の初期の創立時代の話を、繰り返して私たちに聞かせた。ドン・ボスコが宣教師たちをアルゼンチンやパタゴニアに派遣した時、持ち物は衣服と履物だけで財布はなく、お金も一銭も持たせずに、すべてにおいて不足した状態で派遣したのだ。

私たち兄弟会員の別離は感動的であった。マルチェリーノ神父は中国にとどまる二人の若い会員を励まし、自分は彼らの修道会設立を援助するために、必ず日本から中国に戻ると約束した。しかしその約束は果たされなかった。一九三八年、日本が中国大陸で引き起こした戦争と第二次世界大戦、そして毛沢東による独裁政治の開始が、中国にいる兄弟会員たちへのマルチェリーノ神父の訪問を妨げたのである。

南京に誕生した聖パウロ修道会の変遷について、手短かに触れておこう。エマヌエレ神父はかなり早い時期にイタリアに帰り、代わってクレメンテ・カナヴェロ神父が着任した。毛沢東が蒋介石に勝利して共産主義政権を樹立したとき、外国人宣教師たちは、すべて中国から追放された。中国から追放された二人の聖パウロ修道会会員はフィリピンに逃れ、マニラのパウロ会修道院の客となり、そこで中国への再入国の機会を待った。しかし、主なる神は別の計らいを用意されていた。カナヴェロ神父は追放されて数年後に死去し、ベルティーノ神父は九年間フィリピンで活動してから、ここに戻ることなくイタリアへと帰った。あれからすでに三十年以上になるが、聖パウロ修道会の宣教師たちはあの巨大な国、中国において社会的コミュニケーションの手段による使徒職を再開するため、再入国ができる希望を今も失っていない。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』(2020年)より

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