ぶどう園という種 年間第25主日(マタイ20・1〜16)

きょうのミサの『集会祈願』に、「いつも近くにおられる神よ、あなたの思いはすべてを越えてすべてに及び、いつくしみの深さはかり知れません。……すべてにまさる神の愛を悟ることができますように。」とあります。私たちは、おん父の愛をもっと悟ることができるように祈っていきたいですね。

きょうのみことばは、『ぶどう園の労働者』の譬え話です。イエス様は、みことばの始めに「天の国は次のことに似ている」と言われます。もちろんここでイエス様が言われる【天の国】は、私たちが亡くなって行く【天国】というだけではなく、いまの生活の中において「おん父と共にいる喜びと愛で満ちた平安な状態」のことです。イエス様はこの【天の国】を【ぶどう園】として話されているようです。

 イエス様は「ある家の主人がぶどう園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。」と言われます。この【主人】はおん父のことを言っているのでしょう。イスラエルは暑いところですから朝早いほうが仕事も捗(はかど)るということもあるかもしれませんが、それ以上に【朝早く】というのは、おん父が私たちと少しでも早く、また、長い時間を一緒にいたいと思われているのではないでしょうか。そして、彼らに1デナリオン(当時の1日分の日当)という約束で、ぶどう園に労働者を送ります。

主人は、早朝だけではなく、さらに9時ごろ市場に出かけ、何もせずに立っている人がいたので「あなた方もぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払おう」と言われます。その後12時、3時と何度も市場に足を運ばれます。主人であるおん父は、たくさんの人を【天の国】に招こうとしています。そして最後には、5時ごろにも出かけ立っている人に「なぜ何もせず、1日中立っているのか」と言われます。彼らは「誰も雇ってくれないからです」と答えます。彼らは、1日中暑い中、不安な気持ちで市場にいたでしょうし、また、仲間から市場に行くと「ぶどう園で働かせてもらうかもしれない」という情報を聞いて集まってきたのかもしれません。

主人は、彼らの「誰も雇ってくれないからです」という言葉を聞いて憐れに思われたことでしょう。彼らの言葉の中には、「『誰も自分を必要としてくれる人はいない』、『自分のような罪人を雇う人はいない。』」という意味が含まれていたのではないでしょうか。彼らは、ただ自分たちを雇ってくれる人、救ってくれる人を心から待っていたのです。主人は、彼らにも他の人たちと同じように「あなた方もぶどう園に行きなさい」と言われます。彼らは、どのような気持ちでこの言葉を聞いたのでしょう。きっと、「私たちにもできる仕事がある。これで救われる。」と喜んだことでしょう。彼らの中には、歳をとった人、体が不自由ない人、病弱な人、罪人のように誰からも蔑まれている人たちもいたのかもしれません。主人にとって彼らは、【迷える羊】であり、【小さい者】だったのです。

主人は、夕方になったので管理人に「労働者たちを呼び、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで、賃金を払いなさい」と言われます。5時から来た人は、自分たちが頂いた1デナリオンを手にした時、きっと驚いたでしょうし、感謝の気持ちで一杯になったことでしょう。そんな彼らの姿を見ながら、早朝から働いていた人たちは、「こんなに気前の良い主人なら、自分たちはもっと貰えるに違いない」と心の中で思ったのではないでしょうか。しかし、彼らの期待は裏切られ、5時から来た人と同じ「1デナリオン」だったのです。彼らは「……1日じゅう労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じように扱われる」と主人に対して不平を言います。彼らにとって労働は、【労苦】であり【辛抱】という【義務】であったのです。しかし、1時間しか働くことができない人たちは、【喜び】であり【感謝】だったのではないでしょうか。パウロは「……わたしにとって実りある働きを意味します。……あなた方のためには、わたしがこの肉体に留まることがもっと必要です。」(フィリピ1・22〜24)と言っています。パウロにとって「おん父のために働くこと(福音宣教)」は喜びでしたし、むしろ福音宣教をしないことは「災い」(1コリント9・16)だったのです。

主人は、不平をいう人々に「友よ、わたしはあなたに何も不正をしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。……それとも、わたしの気前のよさを、あなたは妬むのか」と言われます。おん父の愛は、私たちの社会の常識ではかることができませんし、またその愛を私たち一人ひとりに同じように与えられたいのです。ちなみにこの「妬む」というのは「悪い目で見る」という意味があるそうです。彼らは、せっかくおん父と共にいる状態の【天の国】にいたのにその豊かさに気づくことができず、「妬み」が起こったのでした。

きょうのみことばは、『放蕩息子』の喩えに似ていて「早朝から働いた人々」は「兄」となりますし、「5時から働いた人々」は「弟」ということになり、「主人」は「父親」です。私たちは、おん父のはかりしれない【いつくしみの愛】を頂いていることに感謝の気持ちを持って、日々働くことができたらいいですね。

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