僅かな捧げ物という種 年間第18主日(マタイ14・13〜21)

私は、修道院の中で聖体奉仕をさせて頂くことがあります。ある日のミサで私は、ブラザーやシスターに「キリストのおん体」と言いながら聖体授与をしていた時に「あっ、この小さなホスチアの中にイエス様がおられる」と頭ではなく、心の中で感じたという不思議な体験をいたしました。さらに、別の日には、「聖体をいただいた私が、イエス様とともにこの聖体を授与している」ということも感じたのです。もちろん、「聖体」の中には、イエス様がおられるというのは分かっていたのですが、心と体で実感したというのは、この時が初めてでした。

きょうのみことばは、イエス様が弟子たちを通して5千人に以上の群衆に「5つのパンと2匹の魚」を授けて満腹させる場面です。イエス様は、洗礼者ヨハネがヘロデの手によって殺された知らせを聞いた後、弟子たち共に舟に乗って人里離れた所に退かれます。イエス様は、どのような思いで退かれたのでしょうか。みことばの中で【人里離れた所】という時、「社会から離れた所。日常生活の場所ではない所。神の場所」という意味があるようです。イエス様は、ヨハネの死を思っておん父へ祈るために人里離れた所に退かれたのかもしれませ。

しかし、群衆は、そのようなイエス様のお気持ちに関係なく自分たちが癒していただきたいためにイエス様の後を追ってそれぞれの町から歩いて行きます。イエス様と弟子たちが舟を降りるともうそこには、町々から集った群衆が待っていたのです。それも「女と子供を除いて、5千人」ということですから、合わせると約1万人以上の群衆がイエス様を待っていたのです。よくよく考えるとそれだけが集まるほどの広い場所があったというのも不思議ですが、その後にイエス様が彼らを「憐れに思い、その中にいた病人を癒された」ということも驚かされます。みことばには、「夕方近くになったとき、……だいぶ時間もたちました。」とありますから、かなりの時間を費やされイエス様が病人を癒されたということがわかります。

イエス様は、ご自分がおん父に祈るために人里離れた所に退かれたのに、そちらの用事を脇に置かれ、さらに、ご自分に癒しを求めて集まってきた群衆をご覧になられて「憐れに思われた」のでした。ここにイエス様の「いつくしみの愛」を感じることができます。イエス様は、いつも人々を【癒す】ことを優先され、放っておかれない、なんとか癒したいという気持ちを大切にされるお方なのです。弟子たちは、病人を癒しているイエス様に近づいて「……群衆を解散させてください。そうすれば、あちこちの村に行って、めいめい食べ物を買うことができます。」と言います。弟子たちの姿は、群衆の癒しへの神の業ではなく、人間的な都合を優先させていました。私たちは、時として自分の都合を優先させて、相手に要求するという傾きがあるのではないでしょうか。私たちは、「イエス様の『いつくしみの愛』の心をください」と祈ることができたらいいですね。

弟子たちは、これだけの群衆に夕食を与えるということは、不可能と心配します。いいえ、もし私たちがこの場所に居合わせたとしても同じようなことを心配することでしょう。しかし、イエス様のお考えは「その必要はない。あなた方が、彼らに食べ物を与えなさい。」ということでした。イエス様は、空腹の状態で群衆を帰すことができない、という気持ちだったのです。しかし、このイエス様の言葉を聞いた弟子たちは、「えっ、何をイエス様は、言われているの、絶対に無理!!」と心の中で思ったのではないでしょうか。彼らは、イエス様に「ここには、5つのパンと2匹の魚しか持ち合わせていません」と言います。弟子たちは、自分たちが持っているものが僅かなものと思ったので「5つのパンと2匹の魚【しか】……」と答えます。イエス様は、「それをわたしの所に持って来なさい」と言われます。イエス様にとっては、【しか】ではなく「5つのパンと2匹の魚【も】ある」という思いだったのでしょう。

イエス様は、その「5つのパンと2匹の魚」を取られ、「天を仰いで賛美をささげ、パンを裂いて」弟子たちにお渡しになられます。このイエス様の動作は、【最後の晩餐】を想起させますし、ミサの中の司祭が聖変化の時に唱えています。弟子たちは、イエス様から頂いた「パンと魚」を群衆に配ります。群衆にとっては、弟子たちから食物を頂いたと思うでしょうが、実はイエス様が弟子たち共に人々に配られておられ、さらに、その食物の中にご自分が入られておられたのではないでしょうか。ですから群衆は満腹になるまで食べることができ、余ったパン切れを集めると12の籠にいっぱいになるほどになったのでしょう。少し前にイエス様は、「パン種が3サトンの小麦粉を発酵させる」という【天の国の神秘】の喩え話を弟子たちにされました。イエス様は、ここで僅かな「5つのパンと2匹の魚」を使われて群衆の空腹を満たされたことで、喩え話を実践されたのです。まさにこの場こそが【天の国】と言ってもいでしょう。

きょうのみことばで、イエス様は私たちが持っている「僅かな捧げ物」をお使いになり大きな恵みをなさるお方なのです。私たちは、日々の生活の中で「私の小さな捧げ物をお使いください」とイエス様に渡すことができたらいいですね。

あなたにオススメ