たとえ毒麦でもという種 年間第16主日(マタイ13・24〜43)

時々、「手が掛かる子ほど可愛い」という言葉を耳にします。私たちは、みんな神様の子どもです。親は、どのような子どもを愛し、たとえ道を間違ったとしても、時には叱り、時には見守って子どもが正しい道に進むのを待つのではないでしょうか。

きょうのみことばは『毒麦の喩え』『芥子種の喩え』そして『パン種の喩え』を使って天の国についてイエス様が語られる場面です。なぜ、イエス様は、喩えを語られたのでしょう。みことばの中程に詩篇の「わたしは口を開いて喩えを語り、世の初めから隠されていることを告げる(いにしえからの神秘を語ろう)。」(詩篇78・2参照)と表されているように、イエス様は、「喩え」を用いられて「おん父のいつくしみの愛とは、また、天の国とはこのようなものですよ。あなたは、どのように思いますか」と問題を提起されたのではないでしょうか。詩篇は、「神秘」とありますので、私たちには、わからない部分、ピントこない部分もあります。私たちは、みことばを味わいながら「私にとってこのみことばはどのように響くのだろう」と黙想することもいいのではないでしょうか。

イエス様は、最初に『毒麦の喩え』を語られます。この喩えでは、主人が【善い種】を畑に蒔きますが、敵が来て毒麦を蒔いて立ち去ります。わざわざ人の畑に来て毒麦を蒔かなくてもよさそうなものですが、実際にはそのようにする人もいたのでしょうか。もしかしたら、雑草のように風に流されて種が落ちて生えたのかもしれません。農家の人は、作物が実る中で雑草とりは日常の仕事となり、何度取っても伸びてきて嫌になります。しかし、雑草を取らないと作物がうまく実らないので仕方がありません。毒麦も同じように農家の人を悩ましていたのではないでしょうか。それで、僕たちは、主人に「……なぜ毒麦が生えたのでしょうか」訴えます。主人は、「それは敵意をもつ者の仕業だ」と答えられます。もしかしたら、僕たちも毒麦が生えてきた理由を分かっていたのかもしれません、それでも、その怒りを主人にぶつけたいと思ったのではないでしょうか。

僕たちは、主人の言葉を聞いて「それでは、行って毒麦を抜き集めましょうか」と言います。僕たちにとっては悪いものは、すぐにでも「抜くべきだ」と考えたのでしょう。このことは、正しいことですが、いろいろな危険性もあります。このようなことは、私たちの周りにもあるのではないでしょうか。例えば、正しさを主張するがあまり、間違った人、弱い人、ちょっと人とは違う人を批判し、その人が思う「正しい方向」へと更生しようとする人がいます。

主人の考えは、毒麦をすぐに抜くのではなく「それには及ばない。……刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言われます。イエス様は、この『毒麦の喩え』について「畑は世界、善い種はみ国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。」と言われています。私たちの周りには、善い人もいますが、残念ながらそうでない人もいます。それでも主人が言うように「それには及ばない」と言うのには、たとえ【悪い者の子ら】でも【善い者の子ら】に変わることもある、と言うおん父の【いつくしみの愛】を示されているのではないでしょうか。さらに、【私】と言う【世界】の中にも、この二つが存在することもあるかもしれません。イエス様は、「柔和で謙遜」なお方ですから私たちの弱さをすぐには裁くことをされず、私たちが気づくことを待っておられるのです。

続いてイエス様は、『芥子種の喩え』と『パン種の喩え』を語られます。この2つに共通することは、種がとても小さいと言うことです。しかし、イエス様は、その小さい種が「空の鳥が来て、その枝に巣を作るほど成長し」また「3サトンの小麦(約40リットル)に混ぜると、やがて全体が発酵する」と言われます。それは、どんなに小さな種であってもおん父の「いつくしみの愛」によって成長し、このことが【天の国の神秘】ということではないでしょうか。

イエス様は、『毒麦』も『小さな2つの種』も成長する中で変わっていくということを伝えているのかもしれません。僕たちのように、悪いもの、小さいものを潰したり、排斥したりと言う考えは、みことばには出てきていませんが、自分たちが言うことが正しい、律法に反する人は裁かれるべきだ、というファリサイ派や律法学者たちのことを指しているのかもしれません。私たちは、時として人を裁いたり、または、自分自身を裁いたりすることがあります。もし「裁いている私」に気づいた時、その心を「受け入れる」「許す」と言う気持ちに変えてみてはいかがでしょうか。そのような気持ちに変わることは、イエス様が言われる「両方とも育つままにしておきなさい」という意味と言ってもいいでしょう。

おん父のいつくしみの愛は、私たちがご自分の「天の国」で育つことを望まれています。しかし、残念なことにその国にいて「居心地が悪い人」も出てきます。そのような人は、「天の国」に入ることができないので自ら出ていくことになるのでしょう。私たちと三位一体の神との関係は、【愛】で結ばれています。私たちは、「こんな小さく弱い私たちですが、あなたの【愛】によって成長させてください」と祈ることができたらいいですね。

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