心の広さ 年間第16主日(マタ13・24~43)

今日のみことばの中に、「毒麦」についての記述が出てきますが、「毒麦」とはどんなものでしょうか。『広辞苑』を調べてみると、次のように記されています。

「いね科の一年生草本。ヨーロッパの原産。茎は直立して高さ約50センチ。葉は線形で、表面は粗糙で葉脈に沿って縦溝があり、葉鞘は赤紫色。夏に茎頂の花軸に緑色の小穂を疎に互生。果実にはテムリンと称する有毒アルカロイドを含む。」

麦の中に混じって育つ黒い穂なら見たことがありますが、「毒麦」を実際に見たことはありません。でも言葉からして、「毒麦」は決してよいものとは言えず、しかも最初から抜き取ろうとすると、麦までくっついてきて、取り除くことが難しいとのこと…。

こうしたたとえと並行して、「なぜイエスは、ご自身に従う人々の中に毒麦のような悪人や罪びとがいたとしても、すぐに締め出すようなことをしないのだろう」という疑問がわいてきます。人間的な見方をしたら、「毒麦」のように見える悪人、罪びとがいればすぐに取り除いていくことを考えがちです。

私が司祭になったのは今から36年前の1984年のことです。その年の4月から中学生志願者の係をしていました。まだ司祭になったばかりで、若かったし、元気でした。今だったら、もっと違う方法で対応しただろうなあと思うこともあります。振り返ってみると、失敗の連続だったのかもしれません。人を養成するというのは、どれがいちばん良くて悪いかは、当事者になってみないと分からないような気がします。

その当時、中学生志願者たちは修道院から公立の中学へ通い、学校は荒廃していました。ある時には、だれかが授業中に非常ベルを鳴らし、全校生徒が校庭に呼び出され、先生から「非常ベルを鳴らしたのは誰だ、出てこい」と。そう言われても反抗期の中学生が出てくるわけがありません。また別の日には、校舎の窓ガラスが割られたりして、用務員の先生は連日、修理でたいへんでした。いろいろな事情が重なり、中学生たちの心も荒れていたのでしょう。そんな時、先生たちはどんな悪い生徒ではあっても、彼らが育っていくのを我慢強く待っていたのかなあと思います。

広い心、待つ心があれば、難しいことも解決するでしょう。主イエスは、すぐに処罰することなく、私たちの回心をずっと見守っていらっしゃる方だなあと思います。

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