わたしの軛(くびき) 年間第14主日(マタ11・25~30)

「くびき」を辞書で調べると、「頸木」「首木」「軛」と出てきます。どの漢字も、首を拘束するようなイメージがあるのではないでしょうか。その昔、粉を挽く時、馬やロバの首に縄を当てられ、目が回るようにグルグルと引き回されていく。そば粉や小麦粉ができあがっていくけれど、馬やロバにとってはちょっとかわいそうな気がします。

今日の箇所で、「わたしの軛を受け入れ、わたしに学びなさい」(マタ11・29)とか、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタ11・30)とか出てきますが、どうして「学びなさい」「負いやすい」「軽い」のか、とても不思議に思っていました。こうした疑問を解決してくれたのが、髙田三郎先生が作詞・作曲された「来なさい」という曲です。この曲はマタ11・28~30を背景にしていますが、先生にとっては晩年の曲で、作曲人生の集大成そのものでしょう。先生の本の中にこんな解説が載っています。

「くびき」は「首木」または「軛」と書き、辞書には「車のながえの端につけて、牛馬のくびにあてる横木」とあります。牛や馬を、荷物の運搬にも農耕にもほとんど使わなくなってしまった現在では、「くびき」を知らない人が多いことでしょう。それは牛や馬にとって、重い過酷なものであり、牛の肩の骨を痛めるものなのです。旧約聖書の中では、この「くびき」は、神の律法のこととして使われていました。それは重いものであったのですが、また喜びを与えるものでもあったのです。新約のキリストは、ユダヤ人の律法主義とは違い、私たちをこの世から解放し、御国の喜びを与えてくださる方です。「柔和、謙遜」とありますが、キリストは「十字架の死に至るまで、自分を低くして従うもの」となられた方であり、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われ、父に対しても、また、すべての人に対しても全き謙遜とやさしさ、キリストの愛を教えてくださった方でした。「わたしのくびき」とは「愛のくびき」であり、しかも、決して私たちだけに負わせるのでなく、常に、私たちと並んでともに負ってくださるのであり、真実、すでに人類全体の重荷を背負って十字架についてくださったのです。(髙田三郎『典礼聖歌を作曲して』オリエンス宗教研究所、246ページ参照)

軛は、何も否定的な意味ではなく、とても肯定的な意味だなあと思います。十字架を担い、苦しみを味わったキリストが、いつも私たちと共にいて歩んでくださることほど、安らかなものはありません。

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