今を生きるという種 年間第13主日(マタイ10・37〜42)

私が知っているシスターの中には、シスターだけが洗礼受けている家族もあります。そのような方の中には、「洗礼までは許しても修道院に入ることは許さない」と親から言われた方もいます。彼女達の何人かは、父親には勘当すると言われ、母親には泣かれながらもそれでも親を説得して、修道会に入会してきた方もいました。きょうのみことばを味わう時、シスター方の話を思い出します。

きょうのみことばは、イエス様が弟子たちを宣教に派遣するにあたっての教えの締め括りの場面です。イエス様は、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と3回も「わたしにふさわしくない」と言われます。イエス様は、別の箇所で「隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22・39)とか、「神は『父と母を敬え。父または母をののしる者は、死刑に処される』」(マタイ15・4)とか言われているのに、両親や自分の子どもを自分よりも愛する者は、【わたしにふさわしくない】と言われたのでしょうか。

この箇所だけを切り取ってみますと、イエス様はなんて残酷な方なんだ、と首を傾げてしましまいます。ただ、ここでイエス様が言われておられるのは、弟子たちが福音宣教をするにあたっての心構えについて語っておられる、ということです。同じように1人の弟子がイエス様に「主よ、まずわたしの父を葬りにいかせてください。」と言った時にも「わたしに従いなさい。死者は死者に葬らせなさい」(マタイ8・21〜22)とも言われています。このようにイエス様は、【福音宣教】をするにあたっては、「まず、優先順位としてご自分を愛することが一番大切なことです」と言われているようです。

私たちは、どうしても家族や身内、いろいろな面でのパートナーのことを大切にし、愛しています。むしろ、自分が傷つき、苦しむよりも愛する人が苦しむことの方が辛いものです。そのように感じることは当然のことですし、苦しむ彼らを放って福音宣教をするということは、無理ですし、人道的ではありません。イエス様は、そんなことを私たちに強要する方ではありません。イエス様は、私たちに「周りの愛する人たちを突き通して、その人とたちの中にいるわたしを愛しなさい」と言われているのではないでしょうか。私たちは、洗礼の恵みを受けてイエス様の愛を知っています。イエス様は、目の前の愛する人にだけ留まることなくその先にいる【ご自分への愛】に目を向けなさい、と言われているのではないでしょうか。私たちと三位一体の神とは、とてもパーソナルな関係ですから、私たちが誰かのために意向を持って祈る時にその先には、必ず三位一体の神がおられるはずです。

私たちが【福音宣教】をする時には、「私が【福音宣教】をする」のではなくそこには、【三位一体の神】とともに行っているのです。それは、私たちが【三位一体の神】を愛し、信頼しているからではないでしょうか。私たちは周りの人、身近な人を「愛する」と言ってもどうしても自分自身のエゴや弱さからうまく愛することができない時もあります。イエス様は、そんな弱い私たちをご存知ですから、最初に私たちを愛してくださいました。

イエス様は、「自分の十字架を担って……わたしのために命を失う者は、それを得る」と言われます。パウロは、イエス様のことを「神の身でありながら、……僕の身となり、……十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました。」(フィリピ2・6〜8)と伝えています。私たちは、イエス様がこれほどまでも私たちを愛してくださっておられることを知っています。私たちは、そのイエス様の愛に完全に倣うことは不可能です。しかし、例えば、自分の時間、労力、能力、言葉などを周りの人に向ける、少しだけ、自分の時間を割いて周りの人のために使う、というのはイエス様が言われる「わたしのために命を失う」ということになるのではないでしょうか。その際たるものは、【殉教】となりますが、私たちの身近な生活の中で周りの人に【今できること】をするということも立派な【福音宣教】と言ってもいいでしょう。

人のために愛の業を行う人の姿は、とても素晴らしく、美しくものです。イザヤ書に「何と美しいことか、山々を超えて、良い知らせをもたらす者の足は。」(イザヤ52・7)とあります。福音宣教という【愛の業】を行う人は、イエス様が言われる「預言者」や「義人」という【小さい人】なのです。そして、彼らを受け入れる人には、謙遜な心、愛の心が不可欠です。そこにイエス様がおられるからです。私たちが【愛の業】を行う時、私たちと一緒に【三位一体の神】がおられますし、同じように私たちを受け入れる人の中にも【三位一体の神】がおられるのです。私たちが人間的な愛だけに留まることなくイエス様への愛に心を向ける時、私たちは【三位一体の神】の愛の【報い】を受けることができるのではないでしょうか。私たちは、この【いつくしみの愛】に信頼して「【今】を生きる」ことができたらいいですね。

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