02. いささか軽率な「初心者」――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち

この「軽率な初心者」とは、私のことである。私はまだ少しだけ残っていた家族からの反対を克服して、一九二四年七月三十一日、アルバの教区神学校から聖パウロ修道会に入会した。一九二六年一月二十四日に着衣式、翌一九二七年三月十二日に終生誓顧を宣立。そして一九三二年十二月十七日に、アルバの聖パウロ修道会の聖堂において、トリノのフランチェスコ・ボッティノ司教によって司祭に叙階された。

尊敬するパウロ家族の創立者の身近で過ごした十年間は、私の生涯で最も喜ばしい年月であった。なぜなら当時のアルバ(ピエモンテ)の母院には、みんなを高揚させる熱気が満ちあふれていたからである。それはひとえに、創立者アルベリオーネ神父の力強い養成と慈父的な指導の実りとによるものであった。

哲学と神学の講義は、参事会員のフランチェスコ・キエザ神父(現在、「尊者」の前段階の「神のしもベ」)によって行われ、出版の使徒職は修道会の年長の司祭と会員たちの責任の下に置かれていた。書籍の普及、経理事務、協力者たちの世話も同様であった。「神学の先生(シニョール・テオロゴ)」」の傍らには、いつも補佐役としてジュゼッペ・ティモテオ・ジャッカルド神父(「シニョール・マエストロ(先生)」)の姿があった。ジャッカルド神父についてはすでに列福調査が終了し、「尊者」の尊称が与えられている。

私は、活字の文選とライノ・タイプを体験した後、ジャッカルド神父の指示で「協力者」の部門で仕事をしていた。そして神学課程の全期間と宣教地に出発するまでの二年間、さらにその後の二年間(一九二八~一九三四年)を、ずっとこの「協力者部門」で働いた。

「協力者」たちへの配慮は会にとって重要な使徒職であり、その仕事は実に多岐にわたっていた。寄付の依頼、ミサの意向、奨学金の提供者を探すこと等々。こうした恩人たちとは頻繁に手紙で連絡を取り合っていた。当時、献金の額は五百~千リラに上るものもあった。ミサの意向は「五~十リラまで」と定められていたが、奨学金の方は実に一万リラにも達していた。それは創立者が五階建ての修道院を十万リラで建設し、アルバの聖パウロ修道会の大聖堂が八十万リラで建てられたことを考えると、かなりの高額であった。

一九二八年から三二年まで、ジャッカルド神父が私に自由に使うことを許した最も速い「普及のための武器」、それは二十五リラの自転車であった。私はそれでピエモンテ全域を縦横無尽に走り回り、ロンバルディア、エミリア、ヴェネトまで足を延ばした。また時には、列車や郵便馬車に自転車を荷物として積み込み、主要な町まで運んだりもした。

その頃、デシデリオ・コスタ神父が、オートバイを中古の自動車に変えた。もう一台の自動車はフィリッポ・マネラが運転するもので、雑誌を駅から発送するためによく使われた。これらの文明の利器が登場する前は、屈強な若者フェデリコ・ムッツァレッリが懸命に不安定な荷馬車を御して雑誌を運んでいたのだった。

さて私の親愛なる自転車は、司祭に叙階されるまでの長い年月、必要不可欠な存在であったが、ついに「その時」が来た。ある日、私は勇気をふりしぼって創立者に交渉した。

「神学の先生(ショール・テオロゴ)、私の自転車はもう使えなくなりました。奨学金の提供者を広範囲に探すために、私にはもう少し良い“足”が必要です」。

すると創立者は腕を広げて、「まあ……神の思し召しのままに……」とだけ言った。

私にとって創立者のこの中途半端な言葉は、中古のバイクを捜しに行く口実には十分であった。私は心の中で思った、「神学の先生は決して禁じたわけではない」と。

私はすぐに出かけて行き、さまざまな車種が店頭に並び、いろいろな値札が陳列されているバイク店に魅かれるように入っていった。そして店内を見回した。私を見知っていた店の主人は、「やあ、ベルテロ神父さん、バイクがご入用ですか。ご予算はおいくらぐらいで」と、気軽に話しかけてきた。

「中古のやつで、できるだけ安いのを……。これから私、バイクの運転も覚えなければならないので」「運転ですって? あなたが? 私はあなたがいつも自転車で小ウサギのように走り回っているのを見ていますよ。自転車もバイクも基本は同じです。ただモーターが付いていて、自動なだけですよ。ここに調子のいいのがあります。値段は千リラですが、神父さんには特別に八百リラにおまけしておきます。でも気に入らなかったり、取り替えたくなったら、いつでも戻しに来ていいですよ」。

私は即座に手付け金として彼に百リラ払った。そして古い「グッツィ」を店から押し出した。整備士が操縦の仕方を教えてくれたが、そのほとんどをすぐに忘れてしまった。それほど初めてモーター付きの車に乗る感動は大きかったのである。

タナロ門に向かって出発し、最初の冒険としてコッピノ通りを走り、自転車の人を追い越した。彼はアルバの医者であった。私はアルバからアスティまでの県道を、速度を上げて時速七〇キロで走り始めていた。ゴヴォーネのカーブでバイクが自然に止まるまで、運転をやめなかった。アルバに戻ろうとして押しがけし、ようやくエンジンがかかるまでに十五分もかかった。こうして、この日の冒険は終わった。

おんぼろのグッツィを一年と少々使い、その後五千リラで新品のグッツィを買い、極東に赴くためにイタリアを離れる日までそれを使い続けて、四千リラで売却した。

・ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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