28. 母院での自給自足――福者ジャッカルド神父の生涯

司祭叙階を延期されていた復員神学生たちのうち3名(トロッソ師、フェノリオ師、ギオーネ師)が、1922年6月29日に、ようやく司祭に叙階された。これで、聖パウロ会には創立者以外に四名の司祭がいることになった。また、その3年後には約5百名の若者を抱えるようになり、その基礎固めはいよいよ強固なものとなった。

しかし、時代は第一次世界大戦後の不況の時代に突入し、インフレと物不足は深刻を極めた。それで、アルベリオーネ神父は、“作れるものは何でも自分たちの手で“という「自給自足」の道を進んだ。たとえば、協力者にポプラの苗木を植えてもらい、手ごろに成長した段階で、聖パウロ会の若者が自前の製紙工場でこれを印刷用紙にした。また。インキも自前で調合した。さらに、聖パウロ会の敷地内にパン焼きかまどを作って小麦粉でパンを焼き、豚や雌牛も飼い、そこから肉やミルクを補給していた。(ちなみに、ティモテオ神父のちちステファノ・ジャッカルドは肉屋さんの経験を生かして、聖パウロ会にしばしば来ては飼育された大きな豚を屠殺し、調理していた。)そして、ついにはレンガ製造工場まで建ててしまった。ただ、レンガ製造工場を建てる前には、レンガにかかわる裁判沙汰まで引き起こしていた。

そのうち、印刷部門も軌道に乗り、有能な作家ウーゴ・ミオニ神父(UgoMioni)に小説を書いてもらい、これを昼夜兼行で印刷し、聖パウロ女子修道会のシスターの協力を得て、イタリア全土に普及した。しかし、この段階でさらに大きな試練に直面した。アルベリオーネ神父が体調を崩し、病床に伏したのである。喉は痛むし、声はかすれるし、おまけに立ち上ることさえ難しくなった。否応なしに、一時環境を変えて安静にしなければならなくなった。アルベリオーネ神父は、動揺する会員たちに向かって言った。「私が死ぬようなことになれば、カノニコ・キエザ神父様にお願いして、助けていただきなさい。前進あるのみですよ」と。

いよいよティモテオ神父の出番になった。機関車役のパウロが倒れたからには、今度は、その愛弟子のテモテが皆を励まし、目標に向けて皆を結集させながら引っ張っていかねばならない。ティモテオ神父にとっては、肩の荷がこれまで以上に重くなっていった。

1923年、アルベリオーネ神父は、アルバの南東約13キロのランゲ丘にある、空気によいベネベェロ(Benevello)村の教会へ、療養のために行った。ここで、アルベリオーネ神父は、「不思議な霊夢」を通してイエスから言葉をいただき、また、霊夢の中でパウロ家の聖堂に掲げられている言葉、「恐れるな、私はあなたたちとともにいる。ここから照らそう。悔い改めの心を保ちなさい」という声を聞いた。

アルベリオーネ神父は、ベネベェロで数週間療養してからアルバに戻った。それからは、具合がよくなったり悪くなったりを繰り返していたが、不思議にも元の体力を取り戻した。

・池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年

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