ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ神父の証言――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち

「永遠の扉に触れることを願う一人の老いたる宣教師が、キリストに『扉を開くこと』に憧れる若者たちにこの思い出をささげる」

「何と美しいことか、山々を越えて、善い知らせをもたらす者の足は。平和を告げ、幸いな善い知らせをもたらし、救いを告げ、「あなたの神が君臨する」とシオンに言う者の足は。声がする。あなたの見張りの者たちが声をあげ、ともに喜び歌っている。まことに、主がシオンに帰られるのを、彼らはその目で見る大声をあげて、ともに喜び歌え、エルサレムの廃墟よ、まことに、主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は、聖なる腕をすべての国の目の前にあらわにされ、地のすべての果てまでも、わたしたちの神の救いを見る。」(イザヤ52・7~10)

一九七八年四月十六日、突然の稲妻のように、悲報が私にもたらされた。「パウロ・マルチェリーノ神父が神のみもとに帰られた」。私は祈りに集中しようとしたが、彼とのさまざまな思い出が走馬灯のように脳裏を駆けめぐった。マルチェリーノ神父は私の人生における「第二の師」(注)であったのだ。私はまだ若いときに、アルベリオーネ神父の霊的指導から彼の指導の下へと移った。以来十八年間、日本におけるパウロ会の設立という困難な事業で(それは多くの点において、心躍るすばらしい体験ではあったのだが)、私は自分自身の歩みを彼の歩みに重ね合わせて共に歩んできたのだ。

私はマルチェリーノ神父をとても敬愛していた。いつも深く尊敬し、全面的に彼を愛していた。彼が生きている間は生来の内気のため、私はこの気持ちをはっきりと言葉に表したことはなかった。今、そのことで私は、彼に赦しを願っている。

しかし賢明かつ善良であると同時に、人間についても物事に関しても実によく洞察していたマルチェリーノ神父のことだから、私の心は初めから知っていたと思う。

宣教方針の面では、私たちには幾つかの対立があった。しかしそれは重大なことではなく、せいぜいちょっとした誤解によるものであった。マルチェリーノ神父が神の光の中へと昇った今、彼と共に歩んだ間に見聞きした数多くのエピソードやさまざまな場所、そして親しい人たちのことを思い出しながら、私はこの「回想録」を敬意と尊敬のしるしとして、今は亡きマルチェリーノ神父にささげたい。

断っておくが、この「回想録」はマルチェリーノ神父の単なる伝記ではない。私は知っている。彼がこの世での最後の旅路を終えるその非常な苦しみのさなか、聖パウロ修道会の歴史を記した貴重な「記録保管所」のために、自らの生涯に関する「報告書」を病に苦しみながら書き記したということを。

彼は誠実に、明快な文体を駆使して、決して短くはないその生涯の重要な出来事を、時の流れの中に正確に位置づけ、賢さと熟慮による判断によってこれを書き残したのだ。

この記録は、マルチェリーノ神父の真実の姿を歴史の中にとどめるものであり、ヤコブ・アルベリオーネ神父の元で彼が「パウロ家族」の揺籃期に果たした極めて重要な役割と、彼がアジアにおいて先鞭をつけた社会的コミュニケーションという使徒職の「旗手」としての姿、そして「預言者」の使命というものをあらためて再認識させるものである。

マルチェリーノ神父とアルベリオーネ神父、この二人には似ている点が少なくない。個人的な容姿・風体や口調は異なっているが、それらは取るに足りないものである。

マルチェリーノ神父はカリスマ的な人であった。と同時に、彼は「預言者」でもあった。

このささやかな本は、私の指導者にして人生の模範、そして「第二の師」でもあったマルチェリーノ神父の偽らざる真実を、忠実に再現する試みなのである。

一九八三年七月三目、私は生まれ故郷サン・ステファノ・ロエロ(クネオ)のヴァッレ・サン・ロレンツォ教会(私が洗礼を受け、五十四年前に初ミサをささげた)で司祭叙階の金祝を祝った。そしてその三年後の一九八六年六月三十日に、私はこの日記の校正作業をすべて終えた。

今、私に残されているのは、「大いなる時」を待つことだけである。親愛なる読者の皆様、どうか私を祈りのうちに記憶してください。

聖パウロ修道会会員
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ神父

(注)パウロ家族において、創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父は当初、「神学の先生(シニョール・テオロゴ)」と呼ばれていた。同神父は三十歳から、修道会のカリスマをよりよく表すために同会の会員たちから「先生(マエストロ)」と呼ばれることを望んだ。総長となった彼はその後、「第一の先生(プリモ・マエストロ)」という名前で呼ばれることになった。本書の監修者であるフォルナザーリ神父がマルチェリーノ神父を「第二の先生(セコンド・マエストロ)」と呼んだのは、彼の生涯に果たしたマルチェリーノ神父の決定的な役割というものが、アルベリオーネ神父の次、すなわち「二番目」に位置づけられる重要なものであったことを表現したかったからである。

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