聖体を生きる キリストの聖体(ヨハネ6・51~58)

聖体のお祝いは、聖週間の聖木曜日の典礼、つまり「主の晩餐」と重ねて考えていくと分かりやすいでしょう。「主の晩餐」の典礼には、聖体とともに、司祭職の制定も入っています。特にイエス自身が弟子たちの足を洗う場面に、司祭職での奉仕の姿が目に浮かんできます。

聖体の制定についての記事は、「コリントの人々への手紙」第一に出てくる箇所が印象的です。すなわち、「これはわたしの体、あなた方のためのものである。わたしの記念として、このように行いなさい」「この杯は、わたしの血による新しい契約である。これを飲む時はいつでもわたしの記念として、このように行いなさい」(一コリ11・24~25)と。この制定の前の部分を読んでいくと、とても興味深い内容です。「このようなことを指示するにあたって、あなた方の集まりが益とならず、かえって害となっていることを、わたしは、ほめるわけにはいきません。まず、あなた方が教会の集まりをもつとき、仲間割れがあるとのことですが、ある程度そうに違いないとわたしは思っています」(一コリ11・17~18)とパウロは語っています。つまり、食事がお互いに一致する機会であるはずなのに、食卓のもめごとがリアルな形で表れています。

どこの世界でもそうですが、仲が悪くなっていくのは、祈りや仕事をしている時よりも、食事の席ではないでしょうか。よく言われる言葉に、「食事の時には、政治と野球の話はするな」と聞いたことがあります。私の修道院でも、ジャイアンツが勝てば喜ぶ人もいるし、ジャイアンツさえ負ければ喜ぶ人も…。食事中での野球の話は禁物です。さらに過剰になって、せっかくのおいしい食事も台無しになるものです。食事は本来、一致のひとときですが、仲間割れの機会となってしまっては、どうしようもないのかもしれません。

聖体のお祝いにあたり、家庭、共同体での一致を振り返るよい機会です。

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