【追悼】夢を追いかけてーー神のみ旨のままに 牧山康二修道士

「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。……空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。」(マタイ6・25)

私はこの聖書の箇所を読んだ時に、それまでと違ったメッセージを神さまから受け取ったように思いました。それは、人間というのは、神さまが創られた動物の中で、最も不思議な動物だということ。どこが不思議かというと、「夢」を持った動物だということです。他の動物は、その日その時を一生懸命に生きている「今を生きる」動物。それに対して人間は、未来を見据えた「夢に向かって」生きる動物のように感じたのです。

それでは、「夢」というのは、いつどうやってその人の中で具体化されていくのでしょうか? おそらく「憧れ」からだと思います。私が最初に持った夢は「ウルトラマン」になることでした。『大きくなったら地球防衛隊に入って、悪い怪獣が地球にやってきたら、ウルトラマンに変身して怪獣をやっつける!」という、今思うと恥ずかしくなるような夢でした。それもこれも、テレビの中の「ウルトラマン」というヒーローに憧れたことがきっかけです。そして、この夢が非現実的なものであることを理解したときは、それは大きなショックを受けました。しかし、子供の頃というのは、これくらいのことでは諦めません。「ウルトラマンがダメなら、仮面ライダーになる!」「なに? 仮面ライダーもダメ? それじゃあゴレンジャーになる!」と堂々巡りを続けます。

こうした夢の挫折を繰り返して、現実的な夢へと歩き出すのに、人はどれくらいの時を必要とするのでしょうか? 幸い私の場合は、小学校に人学するころには現実的な夢を持つことができました。それは、神父さまになることです。もちろん、この夢も漠然としたもので、具体的に神父さまの仕事を理解していたわけではありません。ただ、赤・白・緑・紫・黒の色鮮やかな祭服に身を包み、ミサの中で偉そうに(?)説教する姿に憧れただけなのです。

こうして身近な憧れだった神父を目指して、聖パウロ修道会に入会したのが十九年前のこと。ところが、修道会に入会してみると、神さまへの奉仕には神父だけでなく修道士(ブラザー)というもうーつの道が開かれていることに気付かされました。それからというもの、「縁の下の力持ち」を感じさせる修道士への興味がフツフツと涌いてくるに伴い、夢の対象が神父から修道士へと変わっていきました。しかしながら、修道院で生活してみて、「修道院を辞めたい!」と思ったことは数知れず。

悲しいとき、頭にきたとき、やりたいことをやれないときなど……その理由の多くは、何かしら犠牲にしなければならないときでした。遊びたいさかりの少年時代、恋多き青年時代、その時々に「修道院に入ってさえいなければ!」と後悔したことが多々ありました。

その中でも特に、「友達」を作る過程において痛切に感じることがありました。小学校(佐賀)、中学校(福岡)、高校・大学(東京)と転校を繰り返すたびに、それまでの友達と離ればなれになり、新しい環境の中で友達を作らざるをえません。しかし、起床から就寝まで修道院の時間割にそって生活している私には、学校の友達と一緒に遊ぶことも、部活やサークルに人ることもできません。したがって限られた時間の中で、限られた友達付き合いしかできないのです。その結果、「牧山を誘っても、いつも断ってばかり。付き合い悪いよな」と敬遠されることもしばしばありました。

そんなとき、決まって私を慰めてくれたのは「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てたものはだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10・29)というイエスさまの言葉でした。

夢を追い求めるためには多少の犠牲はつきもの。それは一般社会で生活している人にも、修道院で生活している人にも共通して言えることです。私は初誓願式を宣立した頃、大学時代の友達とビアガーデンに行きました。これは、私のために友達が催してくれたものです。未信者の彼らは、当然のごとく「初誓願」の意味など理解していません。ここでの祝杯は、私の「出世祝い(?)」という名目であげられました。

ところが突然、一人の友達が「俺は今の職場を辞めて、消防士になる」と言い出しました。「どうしたんだよ、急に!」という私たちの問いに、彼は「子供のころからの夢だったんだよ。年齢的にも決断するには今しかないと思った。でも、夏のボーナスをもらってからね……」と答えました。

そして、彼はこうも付け加えました。「さんざん牧山のことをバカにしてたけど、なんだかんだ言いながらも、夢に近づいてるんだもんな。偉いよ!」と。……私に向かって「なんで修道院なんかいるんだよ、辞めちゃえよ」とさんざん意見していた彼の口から、こんな言葉を聞くとは思いもしませんでした。それと同時に、彼のこの言葉は修道生活を続けてきた私にとって最高の賛辞のようにも受け取れました。

ドラッグストアーの店長代理という恵まれた職にいた彼を動かしたものは夢でした。そして彼は夢のために現在の地位を犠牲にしてもかまわないと答えました。これが正しい決断かどうかは私には分かりません。しかし、妥協して生活している人々の多い今日、夢のために犠牲を惜しまない彼の姿勢は励みになります。

私も、夢を追い求めるかぎり、まだまだ多くの犠牲と奉仕を神さまから求められることと思います。それに応えられるだけの「犠牲を犠牲とも思わない」寛大さと、私たちのために人となり、私たちの救いのためにご自分をお捧げになったキリストに倣う生活ができるように、これからも頑張っていきたいと思います。

神のみ旨のままに……。

『希望の丘』1999年より転載

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