26. 疑惑と非難――福者ジャッカルド神父の生涯

聖パウロ会の事業に対して、疑惑と警戒の目で見る人も少なくなかった。1912年になるとすぐに、購入したばかりの土地に長さ32メートル、幅13メートルの5階建ての建物を建てはじめてからである。アルバでは今まで見たこともない巨大な建物である。

「あんな大きな建物には経営陣も、教師たちも、技術陣も必要なのに……。あの若い司祭は、みすぼらしい若者たちを抱えて、何をしようと血迷っているのだ? あのやぼったい若者たちは印刷は素人だし、ジャーナリズムにはまったく疎いし、印刷の雑事に振り回されていては勉強の余裕さえないじゃないか」と、陰口をたたく人たちもいた。

熱心な司祭たちの中にさえ、「アルベリオーネ神父は思い上がっている。彼は幻想家だ、狂信家だ、気をつけよう!」と勧める者もいた。これに追い討ちをかけたのが、次の根も葉もないうわさだった。「アルベリオーネ神父は、教会当局からは、もう信用されていないよ。その事業も倒産したのだからね」と、まことしやかに言いふらし、信者からの貸付金や献金を止めさせようとしたのである。

こうして創立者への非難・妨害に対して、だれよりも苦しんだのは、創立者の右腕であったティモテオ神父であったろう。二人三脚で、草創期の聖パウロ会を、財政面でも若者の教育面でも支えてきだたけに、創立者の痛みを自分の痛みとして肌で感じていたにちがいない。

この一年間にも、創立者に非難を浴びせるもう一つの事件が起こった。第一次世界大戦の終結によって軍隊から復員してきた6名の神学生(注、その中のトロッソ・セバスチアーノ陸軍大尉)と四名の学生の計十名が、神学校を去って聖パウロ会に入会したのである。このことは、アルバ教区でも、その神学校でも大問題となった。「何ということだ! あの会の指導者は、神学校を空にしてしまう気か! 何年にもわたってデリケートな職務を乱用し、出来のよい神学生を引き抜いていくとは何事だ!」と。

これらの非難の声は教区長レ司教の耳にも達した。しかし教区長は、事態の真相がよく理解できていた。復員神学生たちの聖パウロ会への入会の原因は、だれかに唆されたからではなく、戦争による本人たちの心境の変化によるものであるとわかっていた。また他の学生たちの移籍についても、本人たちがマス・メディアによる宣教活動に魅力を感じたためであるとわかっていた。それでも、不満をもつ神学校当局の手前もあって、アルベリオーネ神父を呼んで釈明させた。その際に、アルベリオーネ神父はこう答えた。

「司教様、指導司祭の職務を私に与えてくださったのは、あなたではありませんか。教区内のたくさんの召命に対して、神学生の中から福音宣教への熱意と修道生活への熱意を育てるという任務を与えてくださったではありませんか。今こそ、この善業の実りを取り入れる時です。今起こっていることは、教区の害になるものではありません。かえって教区と教会の役に立ちます」と。

司教は一応納得したが、一般の中傷を止めるためにも、当時の言い回しで「脱走者」をこれ以上出さないためにも、この「脱走者」の叙階は当分見合わせておく、と釘をさしたのであった。

当時、神学校の生徒たちは、聖パウロ会の若者に対抗意識を持って、「あの人たちは司祭になれるか? 『背広の牧師』ぐらいだろうよ。ぼくらはおそらく赤ボタンのついてスータンを着用し、締め金のついた靴を履くことになるよ」と言っていた。聖パウロ会の人たちは仕事に忙しくて、そんな話にかかわっている暇はなかった。特に、ティモテオ神父は、神学校の級友であり戦友でもある青年たちと新しい兄弟として熱烈に歓迎し、新しい生活環境になじむよう細やかな世話をし、そのうちの数人とは生涯固い友情を結んだのであった。そして、前述のピサの教区長は、アルベリオーネ神父に向かって「何だったら若者を連れて私の教区に引っ越してきませんか」と、好意を寄せた。むろん、アルバの教区長も、司教協議会のある人も、ぜひこの教区に留まってくれ、とアルベリオーネ神父に頼んだのであった。こうして、聖パウロ会へのあらぬうわさも騒音も一応静まった。

・池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年

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