まえがき――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロは一九〇六年八月五日、ドメニコとアッバ・テレサを父母としてイタリアで生まれ、翌八月六日、ヴァッレ・サン・ロレンツォの教会においてジュゼッペ・カヴァッロ神父から洗礼を受けた。一九一二年からヴァッレの小学校に通い、女性教師マリアンナ・フォリアトから初等教育を受けた。一九一九年、バッティスタはラッコニージの「モローネ」寄宿学校に入学、後期中等学校へ進むために卒業資格試験の準備を始めた。しかしその「中等教育」は結果的に、アルバの教区神学校に入学する(一九二〇年十月)という形で始まった。教区神学校には上長たち、特に霊的な「師」であったヤコブ・アルベリオーネ神父がもたらした、生き生きした熱心な雰囲気がみなぎっていた。だが、アルベリオーネ神父は三カ月前(一九二〇年六月)に神学校をすでに辞任していたので、神学生たちの間では「聖人を失ってしまった」という深い悲しみと喪失感が満ちていた。

一九二四年五月三日、若き神学生バッティスタ・ベルテロは深く考え、神学校の聖堂で聖母のご像の前で祈った末、聴罪司祭のヌオヴォ神父(参事会員)の勧めに従い、アルベリオーネ神父が創立した聖パウロ修道会に献身する決意を固めた。

こうして教区神学校を去ったバッティスタは同年六月二十六日、聖パウロ修道会の応接室に現れた。

「シニョール・テオロゴ(神学の先生:創立者は周囲からそう呼ばれていた)にお目にかかりたいのですが…」と、彼は来意を告げた。すると小柄で痩せた司祭がほほ笑みながら部屋に入ってきた。

「何か用かね?」。
「すみませんが神父様、私は院長様とお話しがしたいのです」。
「院長は私だよ。さあ、私の部屋に来なさい」。

ベルテロは小さくて飾りけのない、しかし整理の行き届いている部屋に通された。その部屋にはなぜか、得も言えぬ不思議な「香り」が漂っていた。しかしそれが何であるか、彼には分からなかった。その時バッティスタは、初めて「神の聖者」と向かい合っていたのである。一時間におよぶ話し合いの中で起こったこと、そしてその時に話されたことは、五十八年がたった今でも、すべて克明に彼の心の中に刻まれている。

「神の聖者」が語るひと言ひと言が、若者の澄んだ純真な心に及ぼした影響の大きさは、言葉では到底言い表すことのできないものであった。それは神の霊が人知を超えた方法で、人の心に働かれた時であったのだ。

創立者は、少年に向かって言葉少なにこう予言した。「お母さんは君の入会を許し、そのことをたいそう喜ぶだろう。でもお父さんの方は難しいだろう」。

そして彼に聖パウロのメダイを渡して、こう言って送り出した。

「反対を恐れてはいけないよ。お母さんと一緒に祈りなさい。お父さんは来月、君をここに連れてくるだろう」。

そしてその予言どおり、一九二四年の七月三日、父親ドメニコ・ベルテロはアルベリオーネ神父の元に息子を連れてきていた。彼は少々いら立っていた。するとアルベリオーネ神父は「畑の具合はどうかね」と、ピエモンテ地方の方言で穏やかに尋ねた。ドメニコは次第に心がほぐれてくるのを感じて、息子を見やった。そこに彼は息子の明るい笑顔を見いだし、アルベリオーネ神父の微笑に応じた。そしてわずか半時間足らずのうちに、すべては解決していた。ドメニコは喜んで息子をその小柄な司祭に預けることにし、ひざまずいてアルベリオーネ神父の手に接吻した。そして部屋を出るやいなや、息子にこう言った。「よくもお前はあの司祭が『聖人様』だと、おれに知らせておかなかったな!」と。

一九二四年から一九三四年までの十年間、バッティスタは聖パウロ修道会で生活した。創立者(彼はその後、プリモ・マエストロと呼ばれた)は彼を修道会が運営する高等学校に入れ、活字の組み方や校正の仕方を習わせた。それからライノ・タイプを習得し、四年間そこで働いた。その後、創立者は彼に聖パウロ修道会の「協力者」について心を配り、彼らを訪問するという務めを彼に与えた(バッティスタは当時、すでに神学科の神学生であった)。

一九二六年一月二十四日、聖パウロ修道会の保護者「聖パウロの回心の祝日」の前日、アルバ教区のジュゼッペ・フランチェスコ・レ司教は若きバッティスタと九人の修友に、修道服を授与した。彼は生涯この修道服を脱ぐまいと固く決心し、「着たままで眠りたい」とさえ思うほどだった。それほど彼にとって、この修道服は大切なものだったのだ。

一九二六年七月二十九日、バッティスタは六人の同僚と私的修道警願を宣立、イタリアの保護の聖人でローマの聖なる助祭に敬意を表して、修道名に「ロレンツォ」の名を選んだ。一年後の一九二七年、聖パウロ修道会はバチカンから教区法による修道会として認可され、彼の以前の私的誓願は追認によって終生誓願として認められた。

一九三二年十二月十七日、ロレンツォ・ベルテロは他の六人と共に司祭に叙階され、故郷ヴァッレ・サン・ロレンツォの教会において、人々の大いなる喜びのうちに初ミサをささげた。

一九三四年十一月十日、ロレンツォ神父は創立者からパウロ・マルチェリーノ神父と共に日本で聖パウロ修道会を設立するようにとの命を受けた。ブリンディジの港から「コンテ・ヴェルディ」号で出発した彼は十二月九日、神戸に上陸した。その後、約二十年の宣教生活(日本で十八年、アメリカで五年、スペインで一年)の中で、ロレンツォ神父は彼の人生最良の時をこの日本で送ることになるのである。それは彼自身がこの本の中で証言しているとおりであり、監修に携わった私フォルナザーリも、それが真実であると認める。

一九五四年、イタリアに戻ったロレンツォ神父は創立者からフランスのパリにある聖パウロ修道会の志願院に派遣された。そこで外国語の授業と会の新しい修道院建設の任務を与えられ、そこに十二年間とどまった。

一九六六年にはローマの聖パウロ修道会が管理する小教区ジェズ・ブォン・パストーレ教会の司牧を命じられ、そこで四年間働いた。

一九七〇年、霊性を深めるためにアリッチァにある聖パウロ修道会共同体の「聖師修道院」に入る。一九七七年一月一日、アルバーノのラッファエーレ・マカリオ司教は、宗教上ならびに司牧上の奉仕のため、アリッチァの聖堂参事会の正参事会員に彼を加えた。そしてロレンツォ神父は亡くなるその日まで、この重要な役職にとどまった。

一九八二年、ローマとアリッチァにおいて、司祭叙階五十周年のミサをささげたロレンツォ神父は、翌一九八三年七月三日、故郷のヴァッレ・サン・ロレンツォでも、あらためて司祭金祝の祝いを行った。

この慶事をもってロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ神父はその故郷、彼が愛してやまなかったロエロの緑したたる丘、親しい死者たちが眠り、親戚や友人が生活する丘と別れを告げた。また主の呼び掛けに応えて修道会の門をくぐり、「兄弟」となったすべての聖パウロ修道会の仲間たち、および彼が派遣された宣教地で洗礼を授けたすべての信徒たち、そして祖国イタリアで彼が奉仕したすべての信者たちに別れを告げた。

「さようなら、すばらしき人生!」。
「皆さん、また天国で会いましょう!」。

ロレンツォ神父はその人生の終わりにあたり、永遠へと旅立つその「此岸」で私にこのように語った。私は彼の心からの別れの挨拶、彼の命の奉献、そして彼の告別の辞を、繰り返したて皆さんにお伝えする。

聖パウロ修道会
エウジェニオ・フォルナザーリ神父

ロレンツォ・ベルテロ神父の著書
ロレンツォ神父は優れた「文筆家」でもあった。彼が著作を始めたのは、創立者の励ましと勧めによるものであった。その著書を年代順に記しておく。
『殉教者聖ラウレンツィオ』(一九四五年)
『英雄的な母、ベルテロ家のアッバ・テレサの小伝』(一九五六年)
『模範的司祭─ピエモンテの主任司祭G・トマゾ・ベンナの伝記』(一九六七年)
『花嫁と英雄的な母─ロザリア・リバリの神秘的な手紙』(一九六九年)
『聖者との十年─「神のしもべ」ヤコブ・アルベリオーネの思い出』(一九七二年)
『神の拡声器─アルベリオーネ神父によるマス・メディアの使徒たち』(一九七四年)
『日本と韓国における最初のパウロ会宣教師たち』(一九八六年)

・ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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