ともにいるという種 主の昇天(マタイ28・16〜20)

最近は、LINEやフェースブックそしてzoomなどで、遠くにいる人と自宅に居ながらにしてインターネット上で顔が見え、話をするという便利なツールがあります。この時、不思議な一体感、身近さを感じるのではないでしょうか。

きょうの典礼は、『主の昇天』で復活されたイエス様が弟子たちの前から天に昇られたことを記念する日です。弟子たちは、婦人たちが復活されたイエス様に出会って、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように告げなさい。そこでわたしに会える」(マタイ28・10)と告げられたとおりに、ガリラヤへ向かいます。不思議なことに、どうして弟子たちは、ただ「ガリラヤに行くように」と言われただけなのに、彼らがイエス様に出会ったガリラヤ湖ではなく、【山】に行ったのでしょう。みことばには、「イエスがお示しになった山に行った」とありますから、もしかしたら弟子たちの中に何かの啓示があったのかもしれません。

聖書の中で【山】は神聖な場所、神がおられる場所であり、日常の生活とは違った場所として表されています。ちなみに、彼らが登った【山】はイエス様が弟子たちに「自分の貧しさを知る人は幸いである」(マタイ5・3)と教えられた山と言われています。この山は、彼らにとっても懐かしい場所だったことでしょうし、イエス様からキリスト者として大切なことを教えられた場所でもあったのです。きっと、弟子たちは、フィードバックしてイエス様が自分たちに語られた場面が頭の中に浮かんできたのではないでしょうか。

11人の弟子たちは、山で復活されたイエス様に出会います。みことばは、「イエスを見て伏し拝んだ」と書かれています。彼らは、婦人たちが「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(マタイ28・10)ようにイエス様の足を抱かなかったようです。ここに男性と女性の性格、表現の違いがあるのかもしれません。弟子たちは、イエス様を尊いお方として思っていたのかもしれませんし、復活したイエス様のお姿が神々しく映ったのかもしれません。また、婦人たちはただ「ひれ伏した」とありますが、弟子たちは「伏して【拝んだ】」とありますから、イエス様をメシアと感じ【礼拝した】のではないでしょうか。この時はまだ、彼らにとってイエス様は畏れ多い方、近づきがたい方だったのです。

ようやく彼らはイエス様に出会うのですが、中には疑った者もいたようです。この【疑う】という気持ちは、イエス様が復活されたことを否定するという意味ではなく、イエス様が復活されたことをまだ信じきれていない気持ちを表しているのではないでしょうか。イエス様は、弟子たちのそのような気持ちを察したのか、彼らのところに【近づかれ】ます。弟子たちは、イエス様が近づかれてようやく自分たちと一緒に生活された「イエス様だ」と心から信じることができたのだと思います。復活されたイエス様は、ご自分の方から弟子たちの方に歩み寄ってこられる方なのです。復活したイエス様に出会った、弟子たちや婦人たちは、イエス様が復活されたということを確信します。

私たちは、生活の場で今自分がしようとしていることが「正しいことなのか、これで合っているのか。」と【疑問】を抱くことがあります。そんな時、私たちが感じる前からイエス様は、私たちの側に近寄って来られ私たちを導いてくださっているのではないでしょうか。私たちは、自信を持てない時いろいろなことを考え、迷い、心細くなってしまいます。それでも私たちは、心に響いた通りに行った時、イエス様の存在を確信することでしょう。私たちの【疑問】は、イエス様を感じるため、信仰を深めるために必要なことなのかもしれません。

さて、イエス様は、弟子たちに近づかれ「わたしは天においても地においても、すべての権能を与えられている。それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。」と言われます。イエス様は、ここで改めて弟子たち(私たち)に【福音宣教】の使命をお与えになられます。私たちが【福音宣教】をする時には、イエス様が持っておられる【すべての権能】をイエス様と一緒に使わせいただいていると言ってもいいでしょう。さらに、イエス様は「……洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。」と言われます。これは、司祭だけではなく、私たち一人ひとりに対しても言われているのです。私たちは、イエス様から頂いた「互いに愛し合う」という掟(ヨハネ13・35)を生活の場で行う時、使徒たちがアンティオキアでキリスト者と呼ばれたように(使11・26)、周りの人は私たちの中にイエス様を感じるのではないでしょうか。そして、そのことが【福音宣教】の一歩と言ってもいいでしょう。

イエス様は、「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」と言われます。私たちは、この言葉に勇気を頂くことができます。イエス様は、私たちにとって遠くにいるお方ではありません。肉眼では見えませんが、それ以上に私たちの側におられ、私たちを導いてくださっておられます。私たちは、そのイエス様を身近に感じて一緒に歩むことができたらいいですね。

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